全国遊廓案内(昭和5) 愛媛縣

全国遊廓案内(昭和5) 愛媛縣
公開:2021/09/12 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『愛媛縣』に存在した遊廓を説明します。


愛媛縣の部

三津濱町稲荷新地

三津濱町稲荷新地は愛媛縣温泉郡三津濱町字稲荷新地に在つて省線四國鐵道線三津濱驛下車、西へ約十丁。又は私鐵伊豫鐵道三津驛より西へ二丁の地點である。目下伊豫鐵道會社に於て、三津濱、松島間の鉄道布設中に付、開通の暁には更に便利と成る事だらう。

茲は一寸町とかけ離れた處であるが、何時からした斯う遊廓として一廓を成したものであるかは判明して居ない。湯女乃至は私娼の轉化したものである事は云ふ迄も無いが、極最近の事であるらしい。

現在貸座敷業が十一軒あって、娼妓は約百四十人程居る。全部居稼制で送り込み制では無い。店は陰店で、座敷は時間制に成つて居て廻しは取らない。御定りは夕方六時から翌朝六時迄で七圓と云ふのと、一晝夜十四圓と云ふのがある。一時間遊びは税共一圓五十錢である。

妓樓は、新月樓、三福樓、八千代樓、敷島棲、朝日樓、稲葉樓、吾妻樓、いろは樓、鈴の家、住吉樓、日進樓等である。

北條町遊廓

北條町遊廓は愛媛縣北條町に在って鐵道は、讃豫線伊豫北條驛で下車する。

貸座敷は目下三軒あつて、娼妓は約二十人程居る。九州地方の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎである。遊興は仕切、又は通し花制で、客の廻しは絶對に取らない。費用は一時間遊びは一圓三四十錢、一仕切は三圓五十錢位一泊の通しは五圓見當で臺の物は附かない。税は一割。


道後湯之町松ケ枝遊廓

道後湯之町松ケ枝遊廓は愛媛縣溫泉郡道後町字湯之町に在つて松ヶ枝遊廓と稱して居る。伊豫松山市と相距ること十餘丁に過ぎない上に、道後と松山との連絡電車がある。省線松山驛で下車して道後行の電車に乗り、道後停留場(道後驛と云ふ)で下車すれば東へ約二丁の處に位して居る。

道後の町は昔から日本一の湯の町として有名な處丈けに大古時代からの遺跡が數へ切れない程此處には残って居る。泉質も善く、熱度も高く、湧出量も豊富なので、年々湯治客が殺到して町は素晴らしい繁昌振りである。其れ故町の隅々迄も遊山気分が湛溢して、殊に花柳界には新開町の様な活氣とざわめきがある此處の遊廓は元湯女と稱して、温泉旅館の女中が客に淫を賣って居たものであるが、風紀を取締る必要上、明治十一年に現在の遊廓が許可された譯であった。現在は同業者が二十九軒あつて、內四軒丈けは居稼ぎ制で、他の二十五軒は全部送り込み制である。娼妓の過半数は二枚鑑札で、酒席へは旅館からも呼ぶことが出來る。従つて藝娼妓は全部検番制に成って居る。貸座敷には寫眞も出て居なければ、陰店にも成つて居ない。貸座敷の方から屋形ヘロを掛けて娼妓を呼ぶのである。一泊が臺付九圓四十五錢(税共)で、外に二時間遊びが四圓五十錢(税共)と云ふのがある。何れも廻しは絶對に取らない。娼妓は全部で六十三人居る。

妓樓は、朝日樓、新開進樓、夢の家、相生樓、松竹樓、幸樓、月見樓、千歳樓、大岩棲、大紋樓、魚付樓、昭和樓、開華樓、菊水樓、大正樓、好晴樓、明治樓、松鶴樓、一藤樓、稲葉樓、開進樓、初音樓、梅木樓、友聲樓、清月樓、岡猪樓、永樂樓、泉五樓、松月樓、等である。

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全国遊廓案内(昭和5) はじめに
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全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
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