全国遊廓案内(昭和5) 朝鮮京釜線

全国遊廓案内(昭和5) 朝鮮京釜線
公開:2021/09/13 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『朝鮮京釜線』に存在した遊廓を説明します。


朝鮮京釜線

朝鮮に行つて居る人々の中には、比較的女性が尠ない。従って女性が尊まれる。斯うした傾向は獨り朝鮮のみでは無く、至る處の殖民地に見る一般的な傾向である。內地に居る時に於てこそ、朝鮮や支那の婦人が珍らしいけれども、暫らく海外に滞在して居ると直ぐに内地の女が戀しく成る。風俗、習慣、言語、體臭、あらゆるものが懐かしく成って來る加ふるに比較的數が少ないので、朝鮮人の娼妓よりは內地人の娼妓の方が一二割方値が高い。値は高くとも喜んで需要されて行くと云ふ、內地とは正反對の現象が行はれて居る。総體的に料理店の藝妓が娼妓と變化したものが多いので、朝鮮至る處の遊廓にも二枚鑑札の女が居る。そして何處の遊廓に共通的に感ずるものは、殖民地特有のたいはい的な氣分の溢れて居る事だ。世界を家として歩く流浪民同志の、醸し出した一種特有の気分であるかも知れない。

釜山牧島遊廓

釜山牧島遊廓は朝鮮釜山府溘仙町に在つて京釜線釜山驛から南へ約十丁、市電は南濱入口で下車する。賃五錢釜山は朝鮮全道の関門で、京城に劣らぬ大都會である。湊には朝鮮と內地とを継ぐ唯一の關釜連絡船がある。

此の遊廓も元は料理店の組合だつたが、酌婦を昇格さして娼妓としたもので、遊廓として一廓に集合したのは明治四十二年頃である。

目下貸座敷は十五軒あつて、藝妓及娼妓は約百三十人居る。福岡縣、長崎縣の女が多い、店は寫真店で陰店は張つて無い。藝妓も娼妓も共に抱へてあつて、全部居稼ぎ制だ。遊興は時間制、又は通し花制で、廻しは取らない。茲の藝妓は殆んど二枚鑑札である。費用は甲(二枚鑑札)が一泊七圓、乙(娼妓一枚)が一泊六圓、半晝、又は半夜は五圓で、臺の物は別である。

妓樓は。梅月、花家、日進樓、常磐、達摩亭、梅の家、舞鶴樓、光月、榮福樓、米利堅樓、明月樓、七福樓、日の出、勢の家、賛澤樓、の十五軒。

附近には、東萊温泉、海雲豪溫泉、松島、等の歓楽境がある。

釜山緑町遊廓

釜山緑町遊廓は釜山府緑町にあつて、溘仙洞牧島遊廓と相井立して居る廓で、妓樓約二十軒娼妓約百二十人位居る様である、主に娼妓は九州方面の人が多く、遊興費制度等は牧島とほぼ同樣だと見れば間違はない。

鎮海面遊廓

鎮海面遊廓は慶尚南道昌原郡鎮海面連雀町に在つて、鎮昌線鎮海驛より東南へ約十丁の個處に在る。鎮海は鎮守府の所在地で、海陸共に交通の要路である。

料理店が貸座敷と成り、酌婦が娼妓と成ったものである事は、朝鮮の一般他廓と同一経路を過て來たものである。

目下貸座敷は十二軒あつて、娼妓は七十人居る。此の七十人の內に鮮人が二十人居て、他は長崎軒、熊本縣の女である。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらね。廻しも取らない。一時間遊びは二圓位、御定りは五圓で午後六時頃から引け迄で、一泊は七圓である。何れも臺の物が含んで居る。茲の娼妓は全部二枚鑑札である。

妓樓には、鹿島樓、浪花樓、酔月樓、金時樓、たまや、朝日支店、朝日本店、玉川樓、清川樓、一文字樓、鎮海樓、開進樓等がある。

附近には、海軍記念塔、鎮海櫻馬場等がある。


馬山壽町遊廓

馬山壽町遊廓は慶尚南道昌原郡馬山壽町に在つて、馬山線馬山驛から南へ約八丁、乗合自動車の便もある。

貸座敷は現在十軒あつて、娼妓は約五十人居るが、全部朝鮮の女計りである。経営者も朝鮮の人が多い。店には寫眞も無く、又陰店名張つて無い。登樓してから花魁が順次に顔を見せる事に成って居て、其處で相方を定めるのだ、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻し花は取らない。此處の娼妓は全部一枚鑑札だ。費用は御定りが五圓で臺の物が附き、一泊も出來る。

妓樓には、南鮮享、日鮮亭、吾妻亭、明月樓、壽樓、海月樓、南海樓、嶺南樓、酔仙亭、山月亭等がある。

附近には有名な馬山海水浴場がある。

馬山府萬町遊廓

馬山府萬町遊廓は馬山府萬町にあつて、主に朝鮮人の女が多いが。日本人の娼妓も少しは居る。妓樓は約十二軒位あつて、娼妓は約四五十人位居る。遊興費や制度等は、前述の壽町と大差はないが内地人の娼妓は朝鮮人より一二圓高いのが普通である。

馬山府元町遊廓

馬山府元町遊廓は馬山府元町にあつて、遊興費及制度等は右の萬町とほぼ同樣だと思ば良ろしい。

馬山府幸町遊廓

馬山府幸町遊廓は同じく馬山府幸町にあつてほぼ右と同様である。

吉野町遊廓

吉野町遊廓は慶尚南道統營郡統營面吉野町に在つて、馬山驛から陸上十七里あるが海路は馬山港から近い。朝魚鐵道の自動車部の乗合自動車がある。當廓には貸座敷が十一軒あつて娼妓は七十人居る。内鮮人經營者が三人居り、鮮人娼妓が二十人居る。內地の女は主に長崎縣、大分縣の女である。店は張店で、藝娼妓共に居繰き制である。遊興は通し花制で廻しは取らない、費用は一泊御定り藝娼妓(二枚鑑札)は六圓、娼妓は五圓、一時間遊びは藝娼妓一圓、娼妓八十錢である。臺の物は含んで居ない、娼樓には内地人経営のは米山樓、開花樓、清月樓、一福、豊後庵、喜久屋、松乃家、よからう、等であり鮮人経営の家は福輿館、明月館、錦月樓等である。

附処には鎮海、馬山等の古戦場があり、產物には煎魚、海草等があつて、殊に煎魚は東洋第一である。

晋州面大河洞遊廓

晋州面大河洞遊廓は朝鮮慶尚南道晋州郡晋州面大河洞にあって汽車は京釜線、三良津驛で朝鮮鐵道慶南線に乗換へ、終點の晋州で下車する。

現在遊廓の貸座敷數は約十五軒位あつて、娼妓は約百人程居るが、重に朝鮮人多く內地人は比較的少ない様である。店は陰店制で、遊興は大阪式通し花制又は時間制で、廻しは一切取らない事になつて居る。御定りは五圓で酒肴附一泊が可能である。藝妓も呼べる。一時間一圓位である又朝鮮藝妓も居るし娼妓の二枚鑑札の女も居る。


方魚里遊廓

方魚里遊廓は慶尚南道方魚里にあつて、妓樓三軒、娼妓約二十人位居る。他の確實な事は判明していない。

大邱八重垣町遊廓

大邱八重垣町遊廓は朝鮮慶尚北道大邱市八重垣町にあつて、汽車は京釜線大邱で下車する。

大邱は慶尚北道第一の都邑であつて、慶東線の分岐點になつて居る、妓樓は十五軒娼妓約五十人位居て、店は全部寫眞制となつて居る。藝娼妓は全部居稼ぎ制で內地人及朝鮮人が半分位づつであつて、時間制である。御定りは藝娼妓は六圓、娼妓は五圓位で臺の物がつき、一泊が出來る。二枚鑑札が多く居るので特に藝妓を呼ぶ必要がない。

太田面遊廓

太田面遊廓は忠清南道太田郡太田面春日町一丁目に在つて、京釜線太田驛で下車すれば西北へ約五丁である。

太田は交通の要路で遊廓も相當の色を示して居る。目下貸座敷が十軒あつて娼妓は五十二人居るが、中には鮮人の女が二十人、内地の女九州人が三十二人程居る、店は寫眞式で陰店は張つて無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は御定り甲が七圓、乙が六圓で一泊が出來る。但し臺の物は含んで居ない。鮮人の娼妓は此れより二三割方安い事に成っている。此の他に短時間遊びもあつて二圓位でも遊べる。

娼樓には京末樓、新花月、長崎樓、築紫、花月樓、喜楽樓、天龍樓、いろは樓、酔月樓、敷島樓等がある。

金州相生町遊廓

金州相生町遊廓は朝鮮全羅北道金州相生町にあつて、汽車は京釜線太田驛で湖南線に乗換へ裡里驛で慶全北部線に乗換へ、全州驛へ下車するのである。

現在妓樓約五軒。娼妓は五十人位居て、娼妓は內地人が半分朝鮮人半數位である。内地人は長崎、熊本縣人が多い。店は陰店制であつて、遊興は大阪式時間制である。御定りは藝娼妓七圓、娼妓六圓と言ふ事になつて居る。勿論酒に肴二品位は附く。

群山府新奥洞遊廓

群山府新奥洞遊廓は朝鮮忠清南道群山府新興洞にあつて、汽車は京釜線裡里驛で群山線に乗換へ、群山驛に下車する。忠清南道第一の都会で錦江の河口に當る港町である。

現在妓樓は約六軒、娼妓は約六十人位居て、寫眞店である遊興は時間制又は通し花制になつて居るから、廻しは取らない。二枚鑑札及一枚鑑札とあつて、二枚鑑札は六圓、一枚は五圓で酒肴附である。

群山府山手町遊廓

群山府山手町遊廓は群山府山手町にあつて妓樓及娼妓の數も新興洞と略同様で、遊興費及制度もほぼ大差はないと思つて宜しい。


仁川府敷島町遊廓

仁川府敷島町遊廓は朝鮮仁川府にあつて、鐵道は京釜線永豊浦線から仁川線へ乘換へ、仁川驛で下車する。西方に月尾島は長く小月尾島の尾を引いているので、此の島の為に仁川港は至極波が静である。而しながら満潮の差が大きいので餘り感服しない。

貸座敷數は総計で約十軒、二百人位の娼妓が居て、大多数は内地人の娼妓多く、朝鮮の女も相當居る、店は全部寫眞制で、遊興は大阪式の通し花制と時間制であるから、絶対に廻しはない。御定りは一枚鑑札と二枚鑑札に依つて多少相違して居るが、一枚なら酒肴附一泊五圓位で二枚なら六圓若くは七圓と言ふ事になつて居る。従って特に藝娼妓の入用を感じない譯である。

木浦遊廓

木浦遊廓は朝鮮全羅南道木浦府櫻町に在つて、湖南線木浦驛で下車すれば西南へ約八丁の處である。

木浦は黄海に面した港町で、貿易も仲々盛んな處で、町も非常に發展して居る。町の住民は朝鮮人が九分で、内地人が一分位の割合に成つて居る。此處の遊廓は大正三年に許可されたもので、貸座敷業者は全部で七軒あつて、内四軒が内地人の經營であり、三軒が朝鮮人の経営に成つて居る。娼妓は全部で七十八人居るが、內地の女は四十四人、朝鮮の女は三十四人居る。店は陰店式で寫眞制では無い。娼妓の揚げ方も居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊興の方法も時間制で廻しは取らない。一泊の甲が十圓、乙が七圓、丙が五圓で臺の物が附いて來る。此れは內地人の相場であるが、朝鮮人の娼妓なら此の半額と見て差閊は無い。茲の娼妓は多く二枚鑑札であるから、三味線や唄位は唄ふ筈である。

遊樓は、一の谷、日ノ出、三橋樓、永春亭、玄海樓、明月樓等がある。

京城府彌生遊廓

京城府彌生遊廓は京幾道京城府彌生町に在つて、京釜線龍山驛で下車すれば約十二丁、市電は「彌生町入口」で下車すれば宜しい。

京城は元王城の所在地で、總督府以下の各官衙、學校等があつて朝鮮の首府である。此の遊廓は好況時代には四十軒近くの貸座敷があつたのであるが。目下は不況の為めに二十軒に減って終った。娼妓は百五十人居る內に鮮人が二人で、あとは全部内地の女だ。中でも長崎の女が最も多い。店は寫眞式で陰店は張つて無い、娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。此處は元來料理店が貸座敷に変化した處なので、娼妓でも藝妓の鑑札を持つて居る者が多い。従って費用も娼妓と藝娼妓とが異って來る勘定だ。御定り甲(藝娼妓)が七圓で、乙(娼妓)が六圓だが何れも臺の物は含んで居ない。

娼樓は、君の家、桃の家、喜樂樓、三芳樓、三幸樓、大黒樓、入船樓、松月樓、大黒樓支店、花月樓、○丸樓、常磐樓、高陽樓、白水樓支店、山遊樓、金波樓、一福樓、福井樓、白水樓、一富士樓等である。

京城府新地遊廓

京城府新地遊廓は京城府新地にあつて、市内電車は新地停留場で下車する。

此處は京城一の廓で、彌生町の約七八倍もあつて、娼妓も約九百人位居る。內地の女は、長崎、熊本、福岡地方が多い、殊に內地人の娼妓が多く、朝鮮人は他に比して比較的少ない。店は全部寫眞制になつて居り、娼妓は居稼ぎで送り込みはやらない。遊興は時間で廻しは絶體にない、二枚鑑札の女の居る事は他と同様である。御定り一泊は藝娼妓七圓。唯の娼妓は六圓で酒肴附である。


兼二浦面遊廓

兼二浦面遊廓は黄海道黄州郡兼二浦面榮町に在つて、京義線黄海黄州驛から乘換へ兼二浦驛で下車すれば東北へ約十五丁、借切りの自動車でも賃金が驛から四十錢である。

此處の遊廓は、大正七八年頃の好況時代には非常なもので、一時貸座敷が十八九軒もあり娼妓の數も百六七十名居たものであつたが、財界不況と共に其の數も減り、娼樓は十二軒內四軒は鮮人娼妓は百四十人居て、朝鮮の女も四五十人居る。內地の女は長崎縣、熊本縣の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制である。遊興は通し花制で廻しは取らない。一枚鑑札の娼妓と、二枚鑑札の娼妓が居て、費用は御定り一泊が二枚鑑札で七圓、一枚が五圓である。臺の物は含んで居ない。

娼樓には、一楽樓、三宝樓、初音、房の家、金波樓、旭樓、勝の家、入船等がある。土地には三菱製鐵所がある。

鎮南浦碑石里遊廓

鎮南浦碑石里遊廓は平安南道鎮南浦碑石里柳町に在って、平南線鎮南浦驛から西南へ約十丁、乗合自動車の便がある。

大同江の河口にあつて、海陸共に便利な處である。貸座敷は目下九軒あつて、娼妓は約七十人居る。店は寫眞制で藝娼妓は居稼ぎ制遊興は全部通し花制で廻しは取らない。費用は甲、七圓五十錢、乙は六圓で、甲は二枚鑑札の女が相方であり、乙は娼妓が相方である。何れも臺の物が附かない。

妓樓は、浪花樓、やなぎ樓、魚伊樓、近花樓、山陽樓、一六樓、千鳥樓、深川樓、翠月樓、の九樓。

平壌府慶町遊廓

平壌府慶町遊廓は平安南道平壌府賑町に在つて、京義線平壌驛で下車すれば東へ約三丁、驛から乗合自動車で資金迄行けば賃五錢である。

此處も元は料理店であつたが、酌婦の風紀を取締る必要上、明治四十二年に集娼制と咸つて現在の所に移転したもので、二枚鑑札の女の居るのは料理店時代からの遺物である。

目下貸座敷は五十五軒あつて內十五軒が內地人の経営であり、他の四十軒は全部朝鮮人の經營である。娼妓は內地人百五十人、朝鮮人が百三十人居て、内地人は重に長崎人が多い。店は寫眞式で陰店は張つて無い、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は甲(二枚鑑札)が六圓で、乙(一枚鑑札)が五圓で一泊が出来る。但し臺の物は別勘定だ。

娼樓には、美人、静、翠月、長崎、若松、思君、敷島、萬福、藤乃、大船、朝日、東京、松ノ、迎月、眞楽等がある。

元山陽地洞遊廓

元山陽地洞遊廓は咸鏡南道元山府陽地洞にあつて、汽車は京元線元山驛へ下車する。

妓樓は約八軒、娼妓は約八十人位居り朝鮮人半分內地人半分位となって居る。「御定り」は一枚鑑札と二枚鑑札になつて居て、一枚鑑札は五圓、二枚鑑札の藝娼妓は六圓位となつて居る。酒肴附で一泊が出来る。遊興は廻し制度でなく、全部通し花制で、店は陰店を張って居る。


咸興花咲町遊廓

咸興花咲町遊廓は朝鮮咸鏡南道咸鏡街花咲町にあつて、汽車は京元線元山驛から咸鏡線に乗換へ、咸興驛で下車する。

咸興は元山に次ぐ咸鏡南道の都邑で、南部にある西湖津は咽喉に当って居る。現在貸座敷數は約十軒、娼妓は百二十人位居て、内地人と朝鮮人と半々位である。店は陰店を張って居り、遊興は時間制で通し花制であるから廻しはとらない。御定り一泊は藝妓、七圓娼妓六圓が相場で全部本部屋になつて居る。廻し部屋はない酒肴は酒一本肴二附品である。鑑札には一枚と二枚鑑札とあつて、此の地では特に二枚と呼んで居る。

羅南面美吉町美輪之里遊廓

羅南面美吉町美輪之里遊廓は咸鏡北道羅南面美吉町に在って、咸鏡線羅南驛で下車すれば西南約十八丁の處にある。乗合自動車及乗合馬車の便がある。

明治四十一年に遊廓の許可地と成つたもので、其れ以前には二三の日本料理店があつて、其處で藝妓を抱へて居た事に起因するものである。現在は貸座敷が十二軒あつて、娼妓は約百二十人居る內には内地人の娼妓が約六十人居り、朝鮮人の娼妓が約六十人居る。朝鮮人娼妓の服装及言語は、殆んど內地人の其れと大差無い事は會寧邊と同じである。中には勿論朝鮮服の娼妓も居る事は云ふ迄も無い。店の制度は陰店でも無ければ寫眞式でも無く、登樓して茶を飲んで居ると、娼妓が一人一人挨拶をし乍ら顔を見せて行く。其處で相方を選定すると云ふ方式を採つて居る。娼妓は總て居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊興は時間制で廻しは一切取らない。娼妓中には一枚鑑札者と二枚鑑札者と居て、二枚鑑札者の御定りが臺附七圓一枚鑑札者は臺附六圓である。藝妓一時間の玉代が金一圓宛である。

妓樓は、富士見樓、光明樓、富貴樓、吹集、三州樓、安佐可樓、三七十樓、高正樓、大黒家、笑山樓、羅南館、平壌樓、等である。

清津星ヶ丘遊廓

清津星ヶ丘遊廓は咸鏡北道清津府北星町に在つて、咸鏡線清津驛で下車すれば東南へ約五六丁行つた海岸通りを南へをれた處である。乘合自動車を利用すれば、北星町入口で下車する。賃金は市內十錢均一である。

清津は開港場であって咸鏡北道第一の都會である。此の遊廓も元は料理店の組合であつたが、大正八年に現在の個處へ遊廓の許可が取れたので、直ちに茲へ移転して來たものである。従って建築も設備も堂々たるもので、他の大都市の其れに優るとも決して劣るものでは無い。

現在貸座敷は十四軒あり(內二軒は鮮人經營)娼妓は約百四十人(內鮮人三十人內地人は主に長崎縣人百十人)居るが、尚最近に二軒程増加する意気込みである。店は陰店を張って居て、娼妓は居稼ぎ制である。二枚鑑札の藝娼妓も多く居るが、此れも送り込みはやらない。遊興は全部通し花制で廻しは取らない。費用は藝娼妓が一夜七圓で、娼妓は六圓である。臺の物は別勘定である。

此の遊廓獨特の鴨緑江節
「津々の、海より深い私の思、主は知ってか知らいでか、高まつ山の月さえて、かりの音身に泌む秋の空」

附近には朱乙溫泉があつて、汽車自動車の便もある、朝鮮八景の一としても有名である。

娼妓には壽樓、常磐樓、餘香樓、文化樓、祐多可樓、山遊樓、鳴門樓、榮樓、大盛樓、一鶴樓、花月樓、吉祥樓、野月樓、一福樓等である。

會寧面北新地

會寧面北新地は朝鮮咸鏡北道會寧面に在って、清會線會寧驛で下車すれば南へ約四丁の處である。圓タク及人力車の便があつて、殊に人力車の賃金は安く、驛から遊廓の玄關に横着けさしても、車夫に拾錢も與ヘれば大悦びであると云ふ有様だ。

此の遊廓は明治卅九年の、日露戦争直後に四軒の、日本料理店を開業して藝妓を置いた事に始まり、大正五年には同業者が八軒に殖え、藝妓は完全に娼妓の内容を含んで居たので、茲に貸座敷組合として遊廓の許可地と成ったものである。

現在は貸座敷が拾四軒あつて、娼妓が約八十人居る。内四拾人が内地人で、他の四十人は朝鮮人である。但し茲の朝鮮娼妓の大半は和服を着服して居て、言語も殆んど內地人と大差無い迄に精通して居る。茲の遊廓は元來が藝妓町だつたので、娼妓にも二枚鑑札の女が大勢居る。店は陰店式で娼妓は居稼ぎ制である。送り込み制はやって居ない。時間制で廻しは取らない。御定りは二枚鑑札の娼妓を呼べば六圓、一枚鑑札の娼妓を呼べば五圓と云ふ事に成つて居る。前者を甲と云ひ、後者を乙と呼んで居る。御定りには酒肴が附いて一泊が出来る仕組みである。豆滿江節、國境警備の歌舞等が盛んである。

妓樓は、一富士、平海、德川、花月、吉野、萬年、松葉、更科、鶴龜、菊水、九州、都、松月、醉月、等である。

會寧面三同新地遊廓

會寧面三同新地遊廓は朝鮮咸鏡北道會寧面三洞新地にあつて鐵道は京城發の京元線から更に咸鏡線南経由咸鏡線北部の會寧驛で下車する。支那吉林省との國境に近い長白山脈中にある小都會である。

現在妓樓は五軒娼妓は三十人位居て、店は陰店制で、遊興は時間制又は通し花制で、一切廻しを取らぬ事になつて居る。遊興及其の他の制度は前記の三洞北新地とほぼ同樣であると思へば宜しい。

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全国遊廓案内(昭和5) はじめに
全国遊廓案内(昭和5) はじめに

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

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全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、遊廓に関連している言葉の意味を説明しています。(遊廓言葉辞典)


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