全国遊廓案内(昭和5) 廣島縣

全国遊廓案内(昭和5) 廣島縣
公開:2021/09/10 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『廣島縣』に存在した遊廓を説明します。


廣島縣の部

福山市新町遊廓

福山市新町遊廓は廣島縣福山市新町に在って、山陽線福山驛から東へ約三丁、乗合自動車賃は片道金十錢。

福山は元阿部氏の城下で、福山城址は公園に成つてゐて今でる五層の天守閣が殘って居る。
「左義良、左義良と、吉備津の左義良、上は鶴亀五葉の松」
「見たか見て來たか、福山の城を、前はお濠でぼらがすむ」
等の歌は何れも福山城を歌ったものだ。

目下貸座敷の組合員は五十三軒あるが、揚屋は二十五六軒位で、娼妓は百六十人居る。中國、四國、九州邊の女が多い。藝妓は一人も居ない。店は寫眞店で陰店は張つて無い。娼妓は殆んど送り込み制で、居稼ぎは殆んど無いと云つて善い。遊興は時間制と通し花制で、費用は一時間遊びが二圓、引け過ぎ一泊は五六圓と云ふ所だ。臺の物は附かない。

組合員は富士見樓、新玉樓、月見樓、順風樓、都樓、日の出、金の家、松葉、大福樓、東雲樓、魚佐、正美樓、明治樓、山陽樓、恵美須樓、開花樓、浪花樓、福山樓、喜見家、玉川、氣儘亭、改新樓、松一、山平樓、花福棲、若胡、一末亭、梅月樓、末廣、敷島支店、翁樓、いろは樓、一樓、高田亭、敷島、勝利亭、淡字、世界樓、春雨、掬水、清月、初音、新世界、萬歲、高田支店、入舟、おた福、成田樓、瓢亭、一力、吉備凄、第二明治樓、勝利亭支店等である。

附近には草戶明王院、鞆の浦、沼名神社、吉備神社等がある。

府中町老松遊廓

府中町老松遊廓は廣島縣芦品郡府中町字府中に在つて、兩備線(山陽福山驛乘替)府中町驛で下車すれば北へ約五丁、タクシーは市内六十錢均一。

府中は昔備後國府の在つた處で、政治上に重要な土地であった。其れ故遊女の類も可成古くから發展して居たものらしく、明治二十九年に散娼制から集娼制に成つた今日に及んでも、尚二十九軒の揚屋があり、娼妓も九十六人を數へて居る。但し今は昔の様に土地の女は少なくて、熊本縣、福島縣の女が大多数を占めて居る。店は陰店を張つて居り、娼妓は揚屋へ送り込み制で、遊興も通し花制で客の廻しは取らない。費用は一時間遊びが一圓六十錢で、一泊(十二時以後)は四五圓である。臺の物は別勘定。

揚屋は浮世、相生樓、吉の家、丸は樓、開盛樓、月の家、大花樓、萬歳樓、金波樓、松竹樓、二葉、立花樓、一力樓、壽樓、寶來亭、紅屋、富喜樓、巴樓、世界樓、勝利亭、中島樓、丸々庵、喜楽亭、笑花樓支店等。

附近には八ッ山城址、備後嵐山、国幣小社土備神社等がある。

鞆町遊廓

鞆町遊廓は廣島縣鞆町に在つて、山陽本線福山驛から鞆線に乗替へ終點の鞆驛で下車する。瀬戸內海の要律で、多度津への連絡船が出る。

貸座敷は目下九軒あつて、娼妓は約四十人居る。四國及九州地方の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は居稼ぎ制、遊興は時間。仕切、泊花等であつて、廻しは取らない。費用は、一時間遊びが一圓四五十錢半晝半夜は三圓、通しの泊花は六圓見當で、臺の物は別だ。

尾ノ道市遊廓

尾ノ道市遊廓は廣島縣尾道市久江町に在つて、山陽線尾ノ道驛から東へ約十五丁乗合自動車の便がある。

尾ノ道は備後第一の港市で、瀬戸内海水路の要衛である畳表、酒酢鯛等の集散地だ。市の裏方には大寶山があつて、中腹には千光寺があり、山嶺には千畳敷と云ふ古城址がある。尾ノ道瀬戸から內海の半圓を見下して、無數の潮水をつなぎ合せたかのやう、實に吉備第一の眺望である。貸座敷(揚屋)は目下七十八軒あつて、娼妓は二百二十人居る。四國九州地方の女が多い。店は寫眞店で陰店は張つて無い。娼妓は少數の居稼ぎの他は全部送り込み制である。遊興は時間花制で廻しは取らない。費用は四十分一圓で、引け過ぎからの一泊は四五圓程度である。税は六分。臺の物は別勘定である。

三庄町浪花遊廓

三庄町浪花遊廓は廣島縣御調郡三庄町字浪花町に在って、山陽線尾ノ道驛(尾ノ道港)から因島三庄町への發動機船へ乗つて海上五浬の地點に在る。発動機船は一日数回宛の定期便船があるから便利だ。瀬戸內海勝地の一たる尾ノ道瀬戸を通って行くのであるから、途中の景色は又格別だ。三庄町も勝地の一つで避寒地として知られて居る。三庄町には株式会社大阪鐵工所因島工場があつて、遊廓は大正八年に新設されたものである。

貸座敷は目下六軒あって娼妓は五十人居る。店は寫眞制で、娼妓は大阪式の送り込み制である。遊興は時と通し花制で、廻しは取らない。費用は御定り一泊が六圓で、一時間遊びが一圓五十錢である。

揚屋(貸座敷)には喜楽樓、二葉樓、大勝樓、笑楽樓、いろは樓、梅川樓等がある。


糸崎町松濱遊廓

糸崎町松濱遊廓は廣島縣御調郡糸崎町字松濱に在つて、山陽線糸崎驛で下車すれば東へ約一丁、殆んど驛の隣りに在る様なものである。驛の傍らに八幡神社があつて、此の境內には神宮皇后の調の井戸と云ふ古跡があるので、(井戸崎)糸崎と云ふのださうである。

茲は瀬戸內海に面した開港場で、町も相當の發展を見せて居る。貿易額は年に五六百萬圓宛あると云ふ事だ。景色の善い事に於ては内海沿岸掘指の場處で、避暑には好適の地とされて居る。店の制度は陰店で、娼妓は全部居稼ぎ制である。廻しは絶對に取らない。遊興費の基準は時間制で、一時間一圓五十錢、一泊は六圓と云ふ事に成って居る。勿論御銚子が一本附く筈だ。娼妓は重に同縣下の者と、岡山、山口地方の女も居る。

妓樓は、渡邊樓、上杉樓、小川樓、熊本樓、日の出樓、大西樓、末廣樓、河合樓、大黒樓、いろは樓杉本樓、歌谷樓、三幸樓、丸山樓、ゑびす樓、壽樓、山田樓、松龜樓、竹本樓、千年樓、河本樓、栗根樓、盛海棲等である。

忠海町遊廓

忠海町遊廓は廣島縣豊田郡忠海町に在つて、山陽本線本郷驛から東へ約一里半、乘合自動車及乗合馬車の便がある。鞆又は呉から船で行くのも面白い。

貸座敷は目下四軒程で、娼妓は約二十人程居るが、九州及四國の女が多い。店は陰店を張ってみて、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやつてゐない。遊興は時間、仕切、泊花制で、費用は一時間一圓二三十錢、一仕切は二圓七十錢位で、一泊の通し花は五六圓見当である。臺の物は着かない。

竹原町遊廓

竹原町遊廓は鹿島縣賀茂郡竹原町字明神町に在つて、山陽線本郷驛で下車すれば南へ約三里半、乗合自動車で竹原へ行けば賃一圓二十錢である。

竹原港は瀬戸内海に面した港町で、風景の善い慮、又日本一の大詩人頼山陽の出生地として有名である。貸座敷は目下八軒あつて娼妓は百二十五人居るが、殆んど編岡縣の女が大多數を占めて居る。娼妓は全部居稼ぎ制で、送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。御定りは甲五圓乙四圓で、一泊が出來るけれども、臺の物は別勘定である。此の外に短時間遊びもあつて二圓位である。

娼樓は申かい樓、日之出樓、いろは樓、常盤樓、朝日樓、一心樓、入船樓、明月樓等である。

呉市吉浦遊廓

呉市吉浦遊廓は廣島縣市吉浦町字西新地に在つて、山陽吳線吉浦驛で下車すれば南へ約一丁の處である。市電及乗合自動車の便もあるが乘る程の事は無い。

吳市は軍港で鎮守府を置かれる迄は眇たる一小村であつたが、今では隆々として発展し、人口は正に二十萬に近着いて岡山市を越え、近い將來には廣島をも凌駕せんとする程の勢である。港の前面に横はつて居る江田島には海軍兵學校があり、江田島の西には能美島、嚴島、倉橋島大島等があつて、瀬戸内海勝地の一に數へられて居る。此の遊廓が許可地に成ったのは明治二十年十月八日で、現在貸座敷が拾参軒あつて娼妓は百十人居る。店は寫眞割で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通花制で廻しは取らない。費用は御定りが一泊、甲六圓、乙五圓五十錢、外に一時間遊びは二圓位で、何れも臺の物は別勘定である。娼妓は縣下の女が少なくて、九分通り迄は九州の女である。此處には特珠の風習があつて、第四月三日をば「お節句」と云つて、一家全部打揃って野や山に出懸け、飲めや歌へやの大散財を行ふ處である。

娼樓には新竹樓、都樓、大黑樓、支店、明日樓、吟松樓、東棲支店、金盛樓、第三明月樓、松本樓、明月樓、大米樓、金盛樓、松新樓等である。

呉市朝日町遊廓

呉市朝日町遊廓は廣島縣呉市朝田町に在つて、吳線呉驛で下車すれば東へ約一丁、乗合自動車は本通り十三丁目で下車すれば宜しい。呉市の事は吉浦遊廓の項で書いたから、茲では省略する。此處の遊廓は吉浦より遅るる事八年の明治廿八年に設立されたものであるが、地の利を得て居る事と、又一つには営業方針の時機に投じて居た爲めに、めきめきと發展し、今では本家の吉浦を三倍して、貸座敷は四十五軒、娼妓は五百人の多數を置く薇に成った。市の発展振りも又推して知るべしである。店は寫眞制の家と、陰店式の家との兩方あつて、娼妓は全部居稼ぎ制である。遊興は時間制と通し花制(止め制と云つている)であつて通しは取らない。費用は短時間遊びは二圓以內であるが、普通御定りは止め制で六圓五十錢である。軍人は特に五圓五十錢に割引する規定に成って居る。但し臺の物は別勘定だ。税は二圓以上は六分。

貸座敷には朝日、大嘉、四朝日、二大海、福井支店、大衆、東京、神奈川、松鶴、品川、本都、新竹、春日、三竹雪、西松明、豊陽、竹葉、イロハ、大海、一米、松竹、嘉栄、三府、五港、勝山、松川・錦帶、開明、栄、花月、塞翁、竹雪、松明、大正、勝山支店、二竹雪、龍田、福井、三勇、大黒、東京支店、新玉、三朝日、千年、二朝日等がある。

茲には呉小唄、朝小唄等が唄はれて居る。


音戸町遊廓

音戸町遊廓は廣島縣安藝郡郡倉橋島音戸町字音戸町に在つて、山陽呉線吳驛で下車し音戶行きの小蒸気船に乘れば海上四十分賃二十錢。廣島から行けば海上一時間半賃四十錢。

倉橋島は元一地峡を為して本州と續いて居たものを、平清盛が海運の便を計るめに開墾したもので、瀬戸の峡い事に於ては日本一である。従つて潮流の速い事も日本一で「船頭かはいや音頭が瀬戸で、一丈五尺の櫓がしわる」と云ふ船頭唄が土地に在ると云ふ通りだ。音戶には平清盛の塚があって、此の邊一帯が瀬戸內海での勝地と成って居る。鏡の様な海面に浮ぶ大小様々な島々をうつとりと眺め乍ら、呉廣島邊からも態々船で此處の遊廓迄遠征にやつて來る人も多い。昔は關西に於ける六大港の一つだつたので、船で旅行する人は必ず茲に休んだものだつた。従って遊女も餘程昔から居たものらしいが、時代は判明して居ない。遊廓制に成ったのは明治三十八年で、現在貸座敷が八軒あり、娼妓は八十五人居る。福岡縣、熊本縣の女が多い。店は寫眞式で陰店は張って無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は午後六時から翌朝七時迄の一泊が五圓で、短時間(一時間)遊びが二圓五十錢である。臺の物は含んで居ない。

娼樓には第二大黒樓、高瀬棲、溝月樓、久保樓、常盤樓、田中樓、壽樓、大正樓等がある。

廣島市西遊廓

廣島市西遊廓は廣島縣廣島市船入町に在つて、山陽本線廣島驛で下車する。市内電車の便もある。市電は上小綱町下車。

廣島は元浅野氏の奮城下で山陽、山陰兩道第一の都會である。太田川、神田川、京橋川、天満川、川添川、元安川、本川等が市内をゆるやかに流れて居るので、至る處に橋が多く、恰も水都の観がある。橋の多い所は大阪に似て居るが、大阪の様に川の水が濁って居ない。傘、蚊帳、藍、家具、燐寸等の産物がある。

當廓は明治廿五年に創立されたもので、貸座敷は目下五十五軒、娼妓は約三百人居る。店は寫眞店で陰店を張って居ない家が多い。娼妓は送り込み制、又は居稼ぎ制で、遊興は時間、又は通し花制である。廻しは取らない。費用は一時間遊びは一圓五六十錢、宵から一泊の通し花は六七圓見當である。但し臺の物は附かない。藝妓の玉代は一時間一圓廿五錢。

廣島市東遊廓

廣島市東遊廓は廣島縣廣島市下柳町に在つて、山陽本線廣島驛へ下車し、市電は己斐線の山口町へ下車して南へ二三丁の處。

東遊廓は西遊廓よりも約十年後に出來たもので、建築設備其他あらゆる點に於て、西遊廓はりも遜色のある事は争はれない。妓樓は約四十軒あつて、娼妓は約二百五六十人居る。店は寫真制と陰店制で、娼妓は送り込みもやれば居稼ぎもやる。遊興は時間制、又は通し花制、仕切花等を探ってみる。費用は一時間遊びが一圓五六十錢、宵から十二時迄が四五圓、引過ぎからは三四圓位、宵から一泊は六七圓と云ふ處である。但し臺の物は含んで居ない。藝妓の玉代は一時間一圓廿五錢。

嚴島町遊廓

嚴島町遊廓は廣島縣佐伯郡嚴島町に在つて、山陽線嚴島驛からは西へ約二丁の處に在る。(宮島驛から嚴島連絡線に乗るのだ。)

嚴島は日本三景の一で、嚴島神社の在る所である事は、三ツ子迄も善く知つて居る。俗に云ふ宮島詣りとは此處の事を云ふのだ。嚴島神社の故事、来歴絶景等は餘りに有名な事であるから、此處では改めて説明する事を避けやうけれ共、嚴島の存在は知つて居ても、遊廓の存在を知らぬ人が多い。

現在貸座敷が四軒あつて、娼妓は十四人居る。宮城縣、鹿虎兒島縣の女が多い。字治山田の遊廓に比較するには餘りに淋しい感じはするが、営業方針の如何に依つては、各國から人が寄つて來る處丈けに、將來は大いに発展する可能性がある。店は寫眞式で陰店は張って無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊廓は宿泊制で廻しは取らない。費用は御定り(一泊)六圓で、一時間遊びは一圓五十錢だ。但し何れも臺の物は附かない。

妓樓は一富士樓、三日月棲、生駒樓、曙樓の四軒である。藝妓は呼べない。

土地の名勝を唄った里謡に「安藝の宮島廻れば七里、浦は七浦七恵比須」と云ふのがある。

杓子、御盆等が名物で、参詣人の必ず買って歸る品物である。

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全国遊廓案内(昭和5) はじめに
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昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

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全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
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昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、遊廓に関連している言葉の意味を説明しています。(遊廓言葉辞典)


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