全国遊廓案内(昭和5) 朝鮮關東州

全国遊廓案内(昭和5) 朝鮮關東州
公開:2021/09/13 更新:

過去から新しいことを知るために、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、かつて『朝鮮關東州』に存在した遊廓を説明します。


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全国遊廓案内(昭和5) はじめに

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

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全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、遊廓に関連している言葉の意味を説明しています。(遊廓言葉辞典)


朝鮮關東州

大連小崗子

大連小崗子は關東州大連市平和街に在つて、南滿州鐵道大連驛で下車すれは西南約十三丁、阜頭からは約十四五丁の地點に在る遊廓である。市電は小崗子市場前で下車して西へ約一丁も行けば此の盛り場に到達する。

大體此の滿州と云ふ處は、乗物の非常に安い處で、支那人の二頭馬車に乗って、阜頭から小崗子邊迄行つてもたつた二十錢位で事足りるのである。二頭馬車に乗つて大山通りや、浪華町通り邊を疾走したのみでも、既に異國情調を味はふには充分である。日露戰爭終焉後の明治四十一年に、遊廓の目的を以つて交渉したのであつたが、当時の情況は遊廓を許さなかつたので、事實上は遊廓に等しいものではあつたが、表面は料理店として開業し、酌婦(娼妓に同じ)を置いて営業をして來たものである。茲は滿洲の玄關であり、同時に關東州の都なので、輸出貿易の極度に盛んな處である。南滿洲鐵道の首發所であり、奥行方何百里を有する廣大な滿州の野の産物は、悉く茲から捌がれる事を見ても判らう。

大連の岩壁には、常に六七千噸級の大船が五六艘宛も横着けに成って居て、滿洲の大廣原を貫徹して來る荷物列車の到着を待つて居る。斯んな狀態であるから、如何に世界的な大不況時であるとは云っても、藝妓及酌婦(娼妓に同じ)を抱へた料亭が二十九軒もあつて一廓を為し、酌婚は約二百五十人居る。店は寫眞制で、居稼式に成つて居る。送り込み制では無い。時間制で廻しは取らない。娼婦は一時間二圓、御定りは一泊藝妓で十五圓以内、酌婦で七圓以內と云ふ事に成つて居る。藝妓の事を甲と云ひ、酌婦の事を乙と云つて居る。但し此れは内地の女の相場である。で右の外に支那人の酌婦も居るが、内地人の酌婦の約二割安以下と見れば間違ひは無い。

遊樓は、玉川、宮城樓、品川、松月、筑紫樓、金時、新月、松島、泰東樓、藤の家、心清樓、八州、三笠、菊水、出雲、港樓、敷島、福住、吾妻樓、明月、玉家、愛福亭、芙蓉亭、等。

大連市逢坂町遊廓

大連市逢坂町遊廓は關東州大連市逢坂町に在って、滿鐵線大連驛で下車すれば東西へ約五十丁の位置である。市電は春日町又は大門町で下車すれば宜しい。

大連市の照介は小崗子の項でしたから茲では省く事にする。大連市には二大遊廓があつて、一は小崗子であり、一は此の逢坂町である。小崗子には貸座敷が二十九軒しか無いが、逢坂町には現在七十軒ある。藝娼妓の数も、小崗子は二百五十人であるのに、逢坂町には約九百人居つて、規模に於て、又其の発展振りに於て、到底逢坂町の比では無い。茲が明治四十年に最初創設された當時は、僅々十戸に過ぎなかったものであるが、今日の盛大さから当時を回顧したならば、其の急激な発展振りには實に感慨無量に打たれる事だらう。藝娼九百人の内藝娼鼓が四百人、娼妓(当地では酌婦と云ふ)が五百人居て、內朝鮮人が百五十人居る。他は全部內地人で九州、中國地方の女が多い。店は寫眞制で陰店は張つて居ない。藝娼共に居稼ぎ制で送り込み制はやらない。遊興は時間制だから廻しは取らない。當地の藝妓は二枚鑑札と同様で娼妓と同樣な仕事をも公然とやる事に成って居て、御定りの甲が藝妓で一泊が十三圓、乙が酌婦で六圓、一時間遊びが酌婦二圓と云ふ相場である。

遊樓は、松竹、大斗、清川、一力樓、だるま、第四豊栄樓、芙蓉樓、一富士、勇樓、舞鶴、第二千代喜家、三好樓、東雲、恵比須樓、開盛樓、いろは、小富士、干代喜家、末廣、音羽樓、第二豊榮樓、神吉、一福、浮舟、大幸、香月樓、曙、菊水、萬花、魚藤、吉平、第一豊栄樓、太平楽、花園、常盤、快楽、松市、相生樓、壽樓、八千代、正木亭、愛媛樓、藤榮樓、大和家、戀數、三田尻樓、美人館、喜笑樓、喜楽、開春樓、吾妻樓、富田家、第五豊栄樓、第二末廣、橘樓、代加樓、逢坂樓、品川樓、萬盛樓、満花樓、松月、山陽樓、第二逢坂樓、安州館、大連館、日新亭、米山樓、紅梅樓、華山樓、逢川樓等。


旅順支那町

旅順支那町は關東州旅順支那町に在つて、南滿州線旅順驛から東北へ約十五丁、乗合自動車は善通寺迄行く、賃十錢。二頭馬車で行つても二十錢位なものだ。

旅順は日露戰争で有名な處。所謂旅順の要塞は世界一と云はれた程で、猛将乃木將軍も敵將のステッセルには非道く悩まされた處である。今でも要塞は其の儘に残って居て、特殊護保が加へられて在る。破壊された要塞や、弾恨が今でもありありと残って居て、恐しい激戦の有様がまざまざと眼前に展開される様である。

茲は遊廓の様に一廓には成って居るが、貸座敷の一廓では無い。所謂乙種料理店の一廓で、大勢の藝妓や酌婦を抱へて置くのだ。明治卅八年、旅順口の占領後間も無く開設されたもので、目下乙種料理店(貸座敷に相當するもの)は拾七軒あつて、酌婦(娼妓と略同じ)は百十人、藝妓は三十人居る。女は長崎、廣島、福岡、愛媛の順である。店は陰店を張って居て、酌婦は金部居稼ぎ制だ。遊興は時間、は通し花制で、廻しは取らない。費用は酌婦の御定りが六圓で、藝妓の御定りが十二圓である。此れで何れも一泊は出来るが臺の物は別だ。一時間遊びは二圓見當。但し此の百十人の酌婦中には鮮人が三十人居て、玉代は約二割方安い。

附近には、二百三高地、白玉山、黄金山、東鶏冠山等、日露戦争に名高い所が多く、附近の原野からは名物の「ウズラ」が獲れる。

妓樓は、遼東館、東洋軒、蛤亭、新萬歳、一力、吉田屋、笑福樓、吾妻樓、松業、濱名館、以上は内地人の酌婦の家で、京城館、明月館、満月樓、昭和樓、春海館、堺棲、以上は朝鮮人の酌婦の居る家だ。




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