全国遊廓案内(昭和5) 静岡縣

全国遊廓案内(昭和5) 静岡縣
公開:2021/09/14 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『静岡縣』に存在した遊廓を説明します。


静岡縣の部

御殿場

御殿場は静岡縣駿東郡御殿場町字御殿場に在って、東海道線御殿場驛で下車すれば総二十丁の處で乗合自動車のがある。

御殿場町は、御殿場口及須走口から富士に登山する人々の下車するみである事は何人も知らぬ人は無い。茲は東海道線の最高地帯で、驛の處が既に海拔一千四百九十八尺である。其れ故夏は非常に凉しいので、近年避暑地として相當人に知られる様に成って來た。三國一の富士山も、弦が最も雄大な姿を現はす處とされて居る。恐らく貸座敷の中で、寝乍ら富士を眺め得らるるのは茲位なものだらう。

茲には貸座敷が、「鈴吉樓」一軒しか無いので宿場に成つて居る。明治二十九年に創業した家で、娼妓が五人居る。店は陰店で、遊興は東京式廻しを取つて居る。御定りは甲三圓、乙二圓、丙一圓五十錢此の中には税を含んで居る。別に本部屋と云ふ設備は無い。

三島中島遊廓

三島中島遊廓は靜岡懸田方郡三島町字中島にあつて、東海道線の三島驛で駿豆線に乘換へ、廣小路驛で下車するのが便利である。驛から西方へ約五丁、乗合自動車の便がある。

附近には官弊大社三島神社があつて、箱庭の様な富士山が後方に巍然として聳えて居るので、誠に景色のよい所である。妓樓の軒數は五軒、娼妓は全部で四十五人程居る。制度は寫眞制で居稼ぎ制度。遊びは全部東京式の廻し制である。遊興には甲乙丙とあつて、甲は五圓、乙は三圓六十錢、丙は一圓八十錢位で、席料或は遊興税等は一切此の中に含んでいる。
都合で箱を入れる場合には、玉代一座敷二圓八十錢位である。

民謡「富士の白雪朝日でとけて 三島女郎衆の化粧の水」

妓樓は、稲妻樓、尾張樓、萬字樓、井桁樓、新喜樓、の五軒である。

沼津市緑新地遊廓

沼津市緑新地遊廓は静岡縣沼津市緑新地に在って、東海道線沼津驛で下車すれば西南へ約十六丁、乗合自動車は「千本入口」又は「幸町新地入口」で下車すれば宜しい賃金は十錢である。

沼津は東海道の勝地で、千本松原、静浦、江浦等があり、殊に富士の眺めが宜しく、御用邸の在る所以も茲にあるのだ。舊水野氏の城下で市も仲々繁華で、避暑避寒地として知られて居る。五十三次時代からの宿場であつたが、現在では立派な遊廓になつて居る。

現在貸座敷は六軒あつて娼妓は約六十人居るが、秋田山形縣の女が最も多く、次は本縣及東京府の女である。店は寫眞性と陰店制とあつて、娼妓は居稼き制である。客の廻しは取つて居る。費用は御定り二圓三十錢で廻し部屋で臺は附かぬが、甲は五圓四十錢、本部屋で臺附きだ。勿論両方共一泊が出來る。

妓樓には濃州樓、深本樓、日吉樓、中村樓、花樓、大黒樓等がある。

清水市遊廓

清水市遊廓は靜岡縣清水市江尻町に在つて、東海道線江尻驛から清水港行の電車に乘り清水港で下車すれば宜しい。

清水は、侠客清水次郎長の居た處で、彼の墓は今梅隠寺に在る。港は茶の輸出が盛んで恐らく日本一だらう。興津、江尻、久能山へかけて、東京から一泊の遊覧旅行には持つて來いの所である。清見寺、龍華寺、鐵舟寺、久能山、三保の松原、等、富士を背景として風光がよく、仲々見切れない程見る處がある。

目下貸座敷が九軒あつて、娼妓は約四十人程居る。靜岡縣、愛知縣、等の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制。遊興は東京式の廻し花制である。好みによつては時間制の通し花も取る事がある。費用は一時間遊は一圓五十錢位、廻しの一泊は二圓五十錢から四圓位、本部屋は四圓五十錢位からである。臺の物は別だ。

大宮町遊廓

大宮町遊廓は靜岡縣富士郡大宮町字茨木に在つて、東海道本線富士驛から富士身延鐵道に乘換へ、大宮驛で下車する。

大宮は、昔から富士登山の大宮口宿場で、飯盛女も相當に居たものだが、今は貸座敷が三軒しか無い。娼妓も約十人程居るのみだ。附近は養蠶地なので製糸工場が多い。店は陰店で、遊興は時間制と、廻し制とある。費用は一時間遊びが一圓七十錢位で、廻しの一泊は二圓見当である。臺の物は附かない。


吉原町遊廓

吉原町遊廓は靜岡縣吉原町に在って、富士身延鐵道吉原驛で下車する。

妓樓はたつた一軒で、娼妓は四五人しか居ない。費用も、制度も、樓名も判明して居ない。

静岡市安郡川遊廓

静岡市安郡川遊廓は靜岡縣静岡市安部川町に在つて、揚屋町、仲の町、上の町の三ケ町が一廓に成つて居る。東海道本線静岡驛より西へ約十丁、乗合自動車の便もあつて交通甚だ便利である。乘合賃は金十五錢。外に圓タクの設備もある。田圃道のそぞろ歩きも悪くは無い。

静岡市は元駿府と云って、德川家康の隠居地であつた。目下縣廳の所在地として人口約十萬、近在の隣接町村を編入して、近き將來には二十萬の大靜岡市を形成せんとしつつある。従って一時は江戸幕府以上の権力が在つた處丈けに、此の方面も殷盛を極めたもので最も盛大の時は妓樓四十五軒を數へた事もあった。明治初年の火災以後は漸く衰へたりと雖も今尚十三軒の妓樓があり、娼妓百九十人を數へて居る。因に茲は家康の鷹匠役伊部加右衛門と云ふ人が、私娼や飯盛女の類を全部現在の安部川町の一廓に集めて、風俗を取締つたと云ふ事に茲の遊廓の因を為して居る。が純粋に遊女屋町と成ったのは、慶長十二年頃からであるらしい。江戸の吉原が本家で静岡の安部川町が分家、斯うした関係は昔からあつたものと見えて、古風なゆかしい年中行事も此の廓內には最近迄あったのであるが、今は完く其の何物も無く成って終った。

制度は総て東京式で、店は寫眞制、居稼ぎ制、廻し制を採つて居る。大店、中店、小店に依つて相場も多少違って居るし、一本、泊り、仕切、等の區別もあり、又其の中に甲、乙、丙等の階級もある。大店一本(一時間)一圓六十錢、二本は二時間以上で此の倍額に成る。此れに祝儀四十錢、小物六十錢が附くので一本の合計金二圓六十錢と成る。仕切は晝間朝から夕景迄で約十二圓、泊りは約十七圓位である。普通は大抵御定りと云ふ遊び方で、點燈から翌朝迄甲六圓五十錢、乙四圓五十錢、丙三圓九十錢で小物や其他一切が附く事に成って居る。本部屋に這入るには、甲は九十五錢増、乙は七十錢増、丙は五十五錢増である。尚此の外に一時間と云ふのがあつて一圓六十五錢である。右は全部遊興税が合算してある筈だ。藝妓の玉代は一時間一圓二十錢で、茲には昔から廓音頭と云ふ華かな踊りがある。娼妓は大抵尾張、美濃、伊勢地方の女が多くを占めて居る。

妓樓は小松樓、蓬萊樓、喜報樓、初音樓、巴樓、吉田樓、清水樓、江戸樓、若松樓、音羽樓、惠比壽樓、高砂樓、三河樓、の十三軒だ。

附近には由比正雪の墓があり、今は兵營に成つて居るが静岡城址があり、今川義元の首塚等がある。

藤枝町新地

藤枝町新地は静岡縣志太郡藤枝町に在つて、東海道線藤枝驛で下車すれば東へ約十丁の位置に在る。驛から町迄は約小半里も距てて居るので、藤相鐵道を利用して岡出山で下車する方が便利である。

藤枝町は昔から東海道五十三次中の古い宿場で、茲の遊廓も宿場の飯盛女時代から古い歴史を持つて居る。

現在貸座敷が五軒あつて娼妓は全體で三十五人居る。店は陰店式で、寫眞は出て居ない。娼妓は居稼ぎ制で送り込み制では無い。本部屋は無いが廻しは取つて居る。御定りの甲が三圓で乙が一圓五十錢である。此れには税も含まれて居るのだ。此れで甲には御銚子が附き、乙には御茶菓子が附くのだから安いものだ。藝妓は此の廓には這入らない。

妓樓は、清水樓、伊織樓、山泉樓、長盛樓、千葉樓の五軒。

相良町

相良町は静岡縣相良町に在って、東海道線藤枝驛乗換、藤相鐵道相良驛で下車して南へ約五六丁の個處である。

海岸には御前崎の燈臺があつて、一等白色燈の燭光は二十萬燭光と稱せられ、日本一との稱がある。國立茶業試験場も此の町に在る。

貸座敷は宿場に在って、遊廓には成って無い。目下同業者は「岡本樓」、「絃波樓」の二軒あつて娼妓は七人居る。縣下の女が多い。歴は寫眞制で陰店は張つてない。娼妓は居稼ぎ制で送込みはやらない。客の廻しは取つて居るが本部屋は無い。費用は御定りが一圓四十錢で臺の物は附かない。仕切制だから上手に遊べば安く遊べる處だ。

島田町遊廓

島田町遊廓は靜岡縣島田町に在つて、鐵道は東海道線島田驛で下車する。乘合自動車の便がある。

東京方面から行けば大井川の直ぐ手前の驛で、五十三次の一宿だつた。大井川は東海道第一の大河で、日本三急流の一つだ風雨の時等は其の水勢は完く恐ろしい程で、五十三次の時代には直ぐに川止めと成った事に無理は無い。今は三千二百尺の鐵橋が架って居て、附近の名所の一つに成つて居る。斯んな具合だつたので、茲と川向ふの金谷とは長雨が降る程客が盛るので、飯盛女達は長雨の都度に喜んだと云ふ事だ。

目下は貸座敷が二軒しか無いし、娼妓も八九人しか居ないので、昔の盛つた面影等は夢にも見られない店は陰店を張つて居て、遊興は廻し花制だ。通し花も取る事がある。費用は廻し一泊二圓乃至三圓で臺の物は別計算である。


金谷町遊廓

金谷町遊廓は靜岡縣金谷町に在つて、東海道本線金谷驛で下車する。

金谷は五十三次の一つで、島田と金谷との間には大井川が凄じい勢で流れて居る。五十三次の時代には、二三日も降雨が続けば直ぐに「川止」と成る。従って旅人は、川のあく迄は、島田と、金谷とに泊って待たねばならなかつた。飯盛女の繁昌したのも無理は無い。今は然し淋れて、貸座敷はたつた二軒しか無い。娼妓も僅々七八人居るのみだ。陰店を張つて居て、廻し花制である。費用は一時間遊びが一圓六七十錢で、廻し花の一泊は二圓二三十錢位である。臺の物は附かない。

堀の内遊廓

堀の内遊廓は靜岡縣堀の内町字堀の內にあつて東海道線堀の內驛で下車し、南方約四丁位の處にある。

妓樓は総計四軒あつて、娼妓は全部で二十五人居り全部居稼ぎ制で。送り込みはやらない。制度は陰店制で全部東京式の廻し制、遊興費は本部屋の設備がないので全部廻し部屋に成つてゐる。一泊が一切含みで四圓二十錢(遊興税席料共)二時間遊び三圓二十錢一時間遊びは一圓七十錢位である。気に入った娼妓が居なければ娼妓を揚げない代りに席料として五十錢拂へばよい事に成っている。

此の土地には藝妓は居るが遊廓にはめつたに入らぬ様である。

妓樓は、金波樓、南海樓、開春樓、松井樓、の四軒だ。

掛川町遊廓

掛川町遊廓は靜岡縣掛川町字十九首に在って、東海道本線掛川驛へ下車して西へ約七丁、驛から乗合自動車を利用すれば賃十錢である。

掛川も五十三次の一つで、町の後方には無間山觀音寺と云ふ寺が在って、無間の鐘と云ふ有名な鐘がある。此の鐘を撞けば此世では無限の富を得られるが、死後は無間地獄に落されると云ふ傳説がある。「梅ケ枝の手水鉢」と云ふ趣向は此れから出たものだと云ふ事だ。

目下貸座敷はあつて、娼妓は二十五人居るが、静岡縣の女が最も多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎである、廻し制ではあるが、好みに依れば通し花にも応じて居る。費用は一仕切が一圓六十錢で、本部屋は五十錢増しである。臺の物は附かない。

妓樓は、喜樂樓、鈴本樓、新鈴本樓、千歳樓、岡村樓の五軒である。箱は這入らない。

掛川音頭「糸かけて、つぐり織込む葛のはた。さらす乙女の手もなつかしい。夫婦仲よくきぬたうつトントントン」
名産の葛布を唄ったものである。

袋井町

袋井町は静岡縣磐田郡袋井町に在って、東海道線袋井驛で下車すれば北へ約八丁の處に在つて、遊廓では無く宿場に成つて居る。

袋井町の附近で北へ約半里の處には可睡三尺坊(秋葉山)があり、東へ約五十丁の處には、弘法大師の開山した法多山があつて共に參詣人の絶えぬ處である。茲も東海道五十三次の宿場だつたので、汽車の出來る前迄は可成飯盛女が部動した處であつた。明治の初年頃には五六軒の同業者があつたのであるが漸次に減少して今日では「新久能樓」がたつた一軒残って居るのみだ。娼妓は十人居て、陰店を張って居る。居稼ぎ制で送り込みはやらない。本部屋と云ふ物は別に無いが廻しは取って居る。宵からの一泊は御定り四圓五十錢、十二時過ぎからの一泊は三圓、時間遊びの一時間は一圓五十錢である。藝妓を呼べば玉代は一時間一二十錢だ。御定りには確か御銚子が附く筈である。

森町遊廓

森町遊廓は静岡縣周智郡森町にあって、東海道本線袋井驛から北へ約三里、森町行の電車もあれば、乗合自動車もある。電車は驛から賃三十八錢、自動車は四十五錢である。

此の遊廓は明治二十四年に設定されたものではあるが、元は矢張飯盛女であつた。散娼制が集娼制に改まつた迄の事である。

貸座敷は目下、「花月樓」と「喜榮樓」の二軒丈けで、娼妓は全部で十五人居る。重に東北地方の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は居稼ぎである。遊興は廻し花制で、通し花は取らない。費用は一仕切一圓五十錢(一泊可能)で、本部屋は三十錢増しである。臺の物は附かない。藝妓の花代は一時間一圓四十錢。

茶、椎茸、次郎柿、森梅衣菓子等が土地の名物だ。


中泉遊廓

中泉遊廓は静岡縣磐田郡中泉町字田町に在って、東海道線中泉驛で下車すれば西北へ約五丁の個處である。タクシー料金は五十錢。

此の遊廓の設立されたのは明治三十年で宿場女郎の集合した物である。

現在貸座敷が常磐樓、三浦樓、天野みか、江間次郎作、新常磐樓、森徹栄の六軒あつて、娼妓は三十五人居る。秋田、群馬、埼玉縣地方の女が多い。

店は寫眞式で陰店は無い。娼妓は金部居稼ぎ制で送り込みはやらない。客の廻しは取って居る。費用は御定り一泊が甲四圓五十錢、乙が三圓で、本部屋は五十錢増しである。一時間遊びは一圓五十錢だ。藝妓を呼べば玉代が一時間一圓五十錢である。右は臺の物は全部別勘定だ。

附近には八幡公園がある。

見付町遊廓

見付町遊廓は靜岡縣磐田郡見付町に在つて、東海道線中泉驛で下車すれば北へ約十五丁の地點である。驛からは電車及乘合自働車の便があって、何れも十五分とは掛らない。

今でこそ中泉に驛はあるが、昔は見付が東海道の本街道であつた。當時江戸へ上る時は此處で初めて富士の山嶺を見付けるので、見付の臺と云ったものだと云ふ事だ。

此處の遊廓も宿場の飯盛女時代からの遺物で、現在貸座敷が三軒、娼妓は二十五人居る。娼妓は重に三重縣岐阜縣地方の女が多い。店の制度は陰店で寫眞は出て居ない。娼妓は居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊興は客の好みに応じて、時間制もやれば廻し制もやる。先づ廻し制と思へば間違ひは無い。本部屋の設備等は勿論無い。其の代り又値も安い。御定りが一圓五十錢である。藝妓の玉代が一時間一圓五十錢で、見付音頭が民謠兼踊と成つて居り、流行唄としては見付行進曲等がある。

妓樓は、山千樓、音羽樓、大榮樓、の三軒である。

濱松市二葉遊廓

濱松市二葉遊廓は靜岡縣濱松市鴨江町に在って、東海道線濱松驛で下車すれば西へ約十丁の位置である。驛から乗合自動車の便があつて廓大門前で下車すれば宜しい。

濱松市は天龍川と濱名湖との中間に在って、人口約七萬、茶、樂器、濱納豆等の産地である。家康が武田氏と三方ケ原で戦って、敗戦し、軍を退いたのが市の北端に在る此の濱松城跡であつた。濱松は其の名に相應はしい松の都で、さざんさの松、家康鎧掛の松、音羽の松、白山の松、五社の松、御胞衣の松、琴掛の松等の名松がある。大正十一年十一月、現在の遊廓に移転する迄は、昔のままの宿場気分を國道筋に漂はして居たものだったが、現在では全部寫眞式の遊廓に改められて終った。

目下貸座敷が二十二軒あつて、娼妓は約三百人居る。此處の組合には面白い規定があつて直接従業者は全部女性でなければならぬ事に成つて居るので、完くの今「女護ヶ島」を形成つて居る事だ。

娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。客の好みに応じて時間制もやれば廻し制もやつて居る。一時間遊びは甲二圓、乙一圓八十錢、丙一圓六十錢、御定り廻しは一泊三圓八十錢、大引は午前二時から一泊廻し無し四圓二十錢である。藝妓の玉代は一時間一圓四十錢。此處には二葉音頭と云ふ踊りがあつて、娼妓が唄ひ、且つ弾き、且つ踊るのである。

「春の錦を二葉の里に 柳さくらの色くらべ 粋なこころの花盛り よいよいよいよいよいやさ」
「秋はまたよい二葉の廓 月夜からすが來るわいな 今も長者の聲がする よいよいよいよいよいやさ」

妓樓は、豊本樓、寶來樓、西野屋、椛屋、たからや、立花屋、駿河屋、駒屋、古清水、川崎樓、よねや、共榮樓、澤潟屋、島屋、紙屋、米米樓、美奈茂登樓、池田家、古清水支店、大阪樓、金波樓、甲州樓等である。

掛塚町遊廓

掛塚町遊廓は靜岡縣磐田郡掛塚町字掛塚横町に在つて、東海道濱松驛で下車すれば南へ約二里、中泉驛へ下車すれば西南へ約二里、掛塚町迄は何れの驛からでも乗合自動車があって、賃金は各三十錢宛である。掛塚町は天龍川の河口に在つて、明治四十二年迄は帆船が百艘絵もあり、荷物の集散が頻繁であつたが、今は鐵道の為めに押されて帆船は一艘も無く成り、転業をする者が多く成った。漁業、建具業、農業、林木商等が多い。

貸座敷は目下、「吾妻樓」と、「關村樓」の二軒丈けで、娼妓は十人居る。愛知、静岡、秋田縣等の女が勢い。店は陰店を張って居て、娼妓は居稼ぎもやれば送り込みもやつて居る。
居稼ぎの方は廻し花制である。費用は廻しの方は一泊三圓、一時間遊びは一圓五十錢で、臺の物は何れも附かない。藝妓の玉代は一時間一圓四十錢。附近には燈臺、海水浴場等がある。

二俣町遊廓

二俣町遊廓は静岡縣磐田郡二俣町字吾妻町に在って、東海道線濱松驛から遠州電鐵に乘換へ、二俣驛で下車する。乘合自動車の便があつて貨十錢。

附近の三方ケ原は家康と武田氏とが戦って家康の初めて敗けた古戦場として有名だ。二俣は天龍川の沿岸に在つて、北遠の咽喉を占め、水利の便がよい。當貸座敷は明治九年に許可されたもので、目下妓樓は八軒、娼妓は二十五人居て、靜岡縣の女が最も多い。店は寫眞店で、娼妓は全部居稼ぎ制、遊興は廻し制で通し花は取らない、費用は御定りで一泊一圓五十錢で臺の物は附かない。本部屋は無い。恐らく茲は縣下最低廉の遊里だらう。

妓樓は、延年樓、小泉樓、寶來樓、金子樓、二見樓、喜楽樓、吾妻樓、京美樓、の八軒。

« 全国遊廓案内(昭和5) 樺太地方


 ↓↓↓ 全国遊廓案内一覧はこちら

全国遊廓案内(昭和5) はじめに
全国遊廓案内(昭和5) はじめに

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

 ↓↓↓ 遊廓言葉辞典はこちら

全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、遊廓に関連している言葉の意味を説明しています。(遊廓言葉辞典)


B!
今後の励みなります。よろしければシェアをお願いします!