全国遊廓案内(昭和5) 富山縣

全国遊廓案内(昭和5) 富山縣
公開:2021/09/15 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『富山縣』に存在した遊廓を説明します。


富山縣の部

富山縣も。隣縣石川縣、福井縣の影響を受けて、娼妓の數が年々減少して行き、反對に藝妓の數が年々増殖えて行く現象がある。云ふ迄も無く藝妓が安くどしどしと發展するからに外ならない。従つて大抵の妓樓では抱へ藝妓を置いて居る。二枚鑑札の女居る。例へ藝妓の鑑札でも事實上に於ては娼樓と大差は無いのだ。値にも大した開きは無い。料理店兼藝妓店兼待合の様な組織の家が多く、引け過ぎ等は三圓か四圓も床花を附ければ、藝妓が喜んで來る町が多い。

泊町神田新地

泊町神田新地は富山縣下新川郡泊町字神田新地に在つて北陸線泊驛下車東北へ約十ニ丁、一寸人里離れた田園の中にあるが、乗合自動車の便があるので甚だ便利である。

斯んな野趣に富んだ處丈けに、勿論一廓の遊廓を成して居て、藝妓の置屋もあれば、調理店も廓内に在る。勿論茲の遊廓は、宿場が発展したものに相違は無いが、精しい沿革は判明して居ない。

現在揚屋(貸座敷)は六軒あつて、娼妓は十二人居る。置屋は全部陰店式で、娼妓は總て送り込み制を採って居る。御座敷は總て時間制で廻しは絶對に取らない。御定りは夜十二時頃から翌朝迄なら四五圓見當である。藝妓を揚げるとすれば一時間の玉代が一圓で、二時間が一座敷と成って居る。

妓樓は玉木樓、萬歲樓、盛岡樓、水月樓、後楽館、小川亭の六軒。

魚津町新地廓

魚津町新地廓は富山縣下新川郡道下村に在つて、北陸線魚津驛から西へ約四丁、乘合自動車の便があつて賃十五錢。

魚津は、滑川、水橋、生地の海岸にかけて、四月から六月頃迄の間に、海上へ世界的に不思議な蜃氣樓が現はれるので有名だ。珍らしい螢いかの産地としても廣く世に知られて居る。

遊廓は数十年間、馬場と、鴨川との二個處に在つたが、大正三年四月に合併して現在の個所に移転したものである。目下貸座敷が十九軒あつて、娼妓は約五十人程居る。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制で廻しは取らない。費用は一時間遊びが二圓、引け過ぎからの一泊が四五圓程度、臺の物は附かない。税は消費額の一割。藝妓の玉代は二時間一座敷で二圓四十錢。

附近には鯛あみ、水族館等の見物がある。

滑川町常磐廓

滑川町常磐廓は富山縣中新川郡滑川町に在って常磐新地とも云っている。北陸線滑川驛で下車すれば西南約三丁の地點である。

魚津の海岸から滑川の海岸にかけては、マダカスカル島附近のマスカレン島、中央アメリカの一部太平洋岸と、此處とより外には絕對に採れないと云ふ稀らしい螢烏賊の産地で、左右の脚の尖端から強力な光を放射する。其光域は約一尺以上にも及ぶと云ふ事である。漁期は四月から六月迄で、網を引くのは毎夜十時前後で、恰もイルミネーションの様に美しい。彼の有名な立山登山者は皆茲から出る。立山輕便鐵道を利用する事に成っている。

宿場が遊廓に成ったのは何時頃からであるか判明してないが、現在の遊廓には貸座敷業が二十軒、娼妓が十五人、藝妓が七十人居て、皆娼樓の抱へである。店も張つて無ければ陰店でも無い。登樓してから娼妓の相方を撰定する事に成つて居る。時間制で廻しは取らない。居稼制で送り込み制では無い。最低の遊興費は全部で三圓三十錢、此れ以上なら色々な階級がある。藝妓は一時間花代が一圓税は花代の一割祝儀は大抵一圓乃至二圓位である。

茲は小原節が非常に盛んな處であるが、名物螢烏賊踊と云る一風變った踊りがある。娼妓は大抵富山縣、石川縣の女が多い。

妓樓は山東樓、北榮樓、新宅、松月、得月樓、大江樓、勝栄樓、吉田樓、第一中島樓、小蝶樓、柳川樓、千トセ、いろは、中村樓、清勝亭、小扇樓、寶亭、吉見樓、正見屋、上田樓の廿軒である。

東岩瀬村遊廓

東岩瀬村遊廓は富山縣上新川郡東岩瀬村に在つて、北陸本線東岩瀬驛で下車する。

貸座敷は目下四軒あつて、娼妓は約十人居る。何れも皆近縣の女計り。店は陰店を張って居て、娼妓は居稼ぎ制、通し花制で廻しは取らない。費用は一時間遊びが一圓位。一仕切は臺附二圓五十錢位、一泊は四五圓と云ふ處である。

富山市東遊廓

富山市東遊廓は富山縣富山市清水町に在って、北陸線富山驛で下車すれば東南へ約十三丁位な處である。市電又は乗合自動車は「大橋」で下車すれば宜しい。

富山市は神通川に跨った市街で、富山平野の中心點に成つて居る。人口約八萬で北陸線では金澤に次ぐ都會である。富山と云へば何人も直ちに薬屋を聯想するだらう。事實其れ程又大小の藥屋が群を成して發展しつつあつて遠く支那、布哇等迄にも盛んに手を延ばして居る。

従つて遊廓も素晴しく盛大で、貸座敷は六十二軒もあり、娼妓も四五百名働らいて居る。尤も此の遊廓は、明治二十八年に宿場から本遊廓に移轉したものであるが、大を為した原因は、大正二年六月に愛宕遊廓が移轉して來て、茲と合併した事にも因るのである。制度は陰店式ではあるが、登樓してから相方を撰む事に成つて居る。娼妓は居稼ぎ制で送り込み制では無い。時間制で廻しは絶對に取らない事に成って居る。従って何處にも本部屋と云ふものは無い。茲には別に御定りと云ふ物は無いらしい。只一時間が一圓と云ふ規定に成って居て、税が消費額の約一割三分を加算される事に成つて居る。藝妓を呼べば、玉代が一時間一圓五十錢宛である。此の邊は一帯に俗謡小原節の盛んな處である。娼妓は富山縣、石川縣地方の女が多い。

附近の名所としては、長さ百九十一間の神通橋や舊城址等である。

妓樓は、

金清樓 笹田樓 森月樓 大吉樓 新田樓 金鳳樓 坂倉家 大力花樓 石川家 小仙樓 松月樓 小文樓 中米樓 日出樓 小松樓 金勝樓 吉川樓 松見樓 豊久樓 富陶樓 城長 石米樓 八洲 朝日樓 松の木家 堀家 千松家 松乃家 大江樓 福一樓 平喜樓 花月 角海老樓 上田樓 櫻木家 清栄樓 新松樓 近生樓 甲子樓 大澤樓 福多樓 新開樓 松観樓 島田樓 松香 三千乃家 島兼 稲田家 礪渡家 北一樓 玉の家 余川家
の六十二軒である。


高岡羽衣遊廓

高岡羽衣遊廓は富山縣高岡市羽衣町に在って、北陸線高岡驛の西北約二十丁の地點に当って居る。乗合自動車の便があつて、驛から羽衣町迄は約十分で行ける。自動車質十五錢貸切一圓。

茲も元は宿場であつたのであるが、明治三十年頃本所へ移転して遊廓を成したものである。現在揚屋(貸座敷業)が二十一軒あつて、娼妓は全部で百八十人居る。市街とは、一寸離れた田園の中にあるのと、一廓に成って居るのとで、尠なからず野趣に富んで居る。店は陰店で、他の制度は全部大阪式を採用して居るので、勿論娼妓は送り込み制である。詰り置屋から揚屋へ呼んで遊ぶのである。廻しは取らずに総て時間制に成つて居る御定りは酒で遊べば三圓、茶で遊べば二圓、十一時過ぎから翌朝迄なら四五圓と云ふ處である。此の送り込み制と云ふのは、娼妓の鑑札であり乍ら藝妓の様な自由さがある。廓內の料理店から口が掛って來れば、何處へでも行って酒席の接待をする。中には三味線を弾いたり、流行唄の一くさりも唄ふ女も居る。茲は藝妓も娼妓も事實上殆んど區別は無く、玉代も藝妓共に同額で、一時間が金九十錢宛である。娼妓には此の他に仕切遊びと云ふのがあつて、四十分茶で遊べば一圓三十錢、酒で遊べば二人迄は二圓宛である。酒には御銚子が一本と肴に小物が二三品付く事に成つて居る。

妓樓は八重樓、金森家、木下樓、松の家、山田家、小久保樓、牧の家、高辻、どせう家、祝勝樓、金桝樓、吉田、藤田、山月樓、都樓、古曼樓、大九樓、初栄樓、米新樓の廿一軒である。

新湊町遊廓

新湊町遊廓は富山縣新湊町に在つて、鐵道は新湊線の新湊驛で下車する。

妓樓は目下四十二軒あつて、娼妓は約六十人居る。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で、送り込みはやらない。遊興は時間制と通し花制で、費用は一時間遊びが一圓六十錢、十二時迄は臺附三圓五十錢位、通し花は臺附六圓位である。

伏木町遊廓

伏木町遊廓は富山縣伏木町に在つて、氷見線の伏木驛で下車する。

貸座敷は現在十八軒あつて、娼妓は約三十七八人居る。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制送り込みはやらない。遊興は仕切花制、又は通し花制で、廻しはやらない。費用は一仕切三圓二十錢、通し花の方は一泊六圓で臺の物が附く。一時間遊びは一圓八十錢くらい。

氷見町遊廓

氷見町遊廓は富山縣氷見町に在って、氷見線の終點なる氷見驛で下車する。

貸座敷は目下二十三軒あつて、娼妓は約三十人程居る。石川縣及富山縣の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は仕切花制、又は通し花制で、麺しは取らない。費用は一仕切三圓六十錢で、一泊の通し花は臺附六圓五十錢位である。一時間遊びは一圓九十錢。

出町遊廓

出町遊廓は富山縣出町に在って鐵道は中越線出町驛で下車する。

貸座敷は二十七軒あって、娼妓約百人居るが、近縣の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制だ。遊興は時間制、又は通し花制で廻しは取らない。費用は御定り、十二時迄及び十二時以後は臺附四圓位である。一時間遊びは一圓五十錢見当。

福光町遊廓

福光町遊廓は富山縣福光町に在って、鐵道は北陸本線福光驛で下車する。

貸座敷は目下十四軒あつて、娼妓は約廿人居る。石川縣、富山縣の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は居稼ぎ制、遊興は時間制と、仕切制と、通し花制とある。費用は、一時間遊びが一圓三十隻。仕切は臺附三圓、通し花は四五圓見当である。


石動町遊廓

石動町遊廓は富山縣石動町字福町に在つて、鐵道は北陸本線石動驛で下車する。石動の附近には倶利伽羅峠があつて、加賀と越中との境を為して居る。木曾義仲が火半の計を用いて平氏の大軍を全滅せしめた古軒場である。

貸座敷は目下十一軒あつて、娼妓は約二十人居る。何れも附近縣の女だ。店は陰店で、娼妓は居稼ぎ制、遊興は時間花、仕切花、通し花等で、廻し花は取らない。費用は仕切花は豪附き三圓位。一時間遊びは一圓三十錢位通し花は五圓位である。

井波町遊廓

井波町遊廓は富山縣井波町に在つて、鐵道は中越線の井波驛で下車する。

貸座敷は目下十一軒あって娼妓は縦廿四五人居るが、石川縣、富山縣の女が多い。店は陰店を張って居て娼妓は全部居稼ぎ制で、送り込みはやらない。遊興は仕切花制と通し花制で、廻しは取らない。費用は、午前中、午後六時迄、十二時迄、引け以後の四種あって、一仕切りは御定り三圓五十錢、二仕切は六圓位で臺の物が附く。一時間遊びは一圓六十錢位。

入尾町遊廓

入尾町遊廓は富山驛入尾町にあって、妓樓約三軒、娼妓約十名位居る。

道下村遊廓

道下村遊廓は富山縣道下村にあって妓樓三十四軒位ある。

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全国遊廓案内(昭和5) はじめに
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