釣の呼吸(大正14) 釣と新人

釣の呼吸(大正14) 釣と新人
公開:2021/09/17 更新:

大正14年(1925)に書かれた戦前の釣りに関する本、『釣の呼吸』(上田尚著)の中から、今回は「釣と新人」についてご紹介する。


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釣の呼吸(大正14) はじめに

大正14(1925)年に書かれた戦前の釣り本『釣の呼吸』(上田尚著)を読むシリーズ。現在にも通じる釣りの楽しみ方から歴史、文化まで。今でも納得の内容で読み応え充分!


釣と新人

一 新人は何故釣れる

 魚はきまぐれなものと見えて、稀にひょいと出掛けた人や、初めて絲を手にした者などによく當るといふ。俗に「新米の初當り」などといふこともあって、先輩ぶって誘った人よりも、誘われたものに存外當ることがある。釣狂ひなど言はれて尚得得としている人の釣の第一印象を聞いてみると、何ういふものかよく釣れている方が多い。私もまた其一人で、之を思ふと釣ったこともないのに、「私は無器用で」などと、自分で定めてかかるも何うかと思ふのである。

 美しい水中を通して、いそいそ泳いでいる魚をみると、出来得るならば手づかみにもして見たい。鮭の群れが背を立てて尾ひれで水を跳ねながら本流を遡る映画や、欧米の若い婦人達までが、弓を張った釣竿を手にして、リールで魚を巻き寄せている写真などを見ても、取敢ず飛込んで掬って見たい気分になって、そこに何かしら快感を覚えしめる。又竿の影の動く所、自然に急ぐ足を停めしめる。そしてもう自分も釣っている人の気分がして来る。この刹那に心の底から湧いて出る気分、抑え難い快感は、これやがて人間的な趣味としての釣に親み羽琉新人の貴い所である。器用不器用は大した問題ではない。

 今何が釣れる。何故釣れる。どうして釣る。これだけを一応頭に入れ且実地に就いて教えて貰うのみでも釣は楽める。もう一つ「併し私は駄目でせう」と付加して来る人には言うべきことがある。駄目か駄目でないかは試みた上のことで、何事も「でせう」で解決するものはない。気短きものも気おくれする人でも、釣には釣りの天分があって、事に當りてこそ自信も出来、興味を覚えてくる。そこは自分で色々メンタルテストを施してみることである。新米の初當り、これも試みた人にして初めて知る快味ではないか。

 魚は何も新人の初づりを祝福して呉れるものではないが、そのよく當るのには理由がある。第一その仕掛が先輩の厳選した良品であり、竿や餌なども無論吟味してある上、場所釣り方なども最良とする所のみを教へられ、新人自信は好奇心に驅られて、単に其日其場合の所謂さわりや合の手のみを頭に入れ、他に何等の雑念妄想を交へず、一輪に全智能全神経を傾注してかかる、それでも尚思はしくなくば。先輩の造作に注視してベストを盡す所に初當りの當然さがある譯である。

二 呼吸に代わる合理的研究

 ある老漁夫の打明話によると、近年魚が益々減って来た上に非常に敏くなったので、不漁てはお客に申訳がないと色々に心配もして来たが、近頃又一つ心配が増したといふ。其理由はこうである。以前は新来の客は、そこを何とか繕って一日を楽しますれば良かったが、近頃では仕掛餌釣り方何によらず、客が得心の行く所まで幾度でも根掘り葉掘り聞返して、次にこうではないか、ああして見ては何うだろうかと来る。そして結局は船頭が反対に客から色々と新しいことを聞かされるようになり、之れでは、うかうかして居れないと言うのである。これは抑も何を語るのであろうか。

 客が得心するまで反問するのは、釣者が其日の成績の良不良のみならず、何処までも合理的に楽しまんとするものであり、更に反対に船頭が教わるというのは、それだけ客は見聞広く且科学的常識ともいうべきものが働いて来ている為ではなかろうか。

 漁夫は祖先からの言い伝えと自分の体験より外に知識の持合せが少ない。世の文化に遅れがちな憐れな人達である。釣客は趣味の上から頗る合理的に広く深く之を究め得る結果は、釣技の進歩が速くなり、更に新しい知識が働いて彼らを刺激する。そこに老漁夫の悩みが増すのである。

 之を客から言わしむれば、釣は漁夫のいう呼吸即ちコツのみではなくて、魚及びその環境の凡てに於ける釣の常識ともいうべきものがなくては、何時でも新米の初當のような快味は得られない。単純な頭の持ち主では事実釣れもしなければ、此趣味に満足し得ないから茲に至るのである。

三 石ころから見た原人と文化人

 新南洋マーシャル群島の南方、南緯三十分に位置している珊瑚礁より成る太洋島では、土人が餌付の鉤を白い石ころに結付けて二百尋の深さに垂下して、石が底に達すると絲をしゃくって之を落し、ふかし釣の要領を以ってすずきのような三尺もある魚を釣上げる。そして其釣が白い石に限ることのみを知っている。

 所で燐鉱石を積取に行った高級船員の話によると、その石は暗い所でも発光するので魚がそれに集る。そこへ餌を見せるから釣れるので石炭や鉄屑の錘では駄目なことが判明し、真鯛でも何でも殆ど之で釣り、現在千以上を数える在留同胞も魚に不自由しないことになっているというのである。船員も之で無聊を慰める。

 洋中の僅々直径約五哩の孤島に於いて、一種の石ころに恵まれて魚を得るにも、原人と文化人との間には、智能の差に依りて、それだけ考察も趣味も変わって来る。白色の物体は薄暗い水中では凡て淡青くなり、其石が何質であるか見なければ確言は出来ないが、更に暗中でも光るだけの特質があるとすれば、独り太洋島のみではない。白色の釣餌、発光する寄せ餌、そこに吾々の釣にも応用さるべき何者かを見出せそうである。

 兎に角漁夫や天狗中の或者の如く、永年同じことを繰返しているよりも、一歩進んだ頭で研究し、新趣味を展開することは新人の特権であり事実嬉しいことである。釣は文化人にして初めて望豊かな高尚な趣味となるべきで、魚が減少し敏くなり、しかも原始的な娯楽であるが為に、やってみる気分にもなれないとして片付けることは、其特権を失うことになり、いかにも惜しいものである。


四 時代的な釣師

 今でも「釣師」という名詞を同好者間にも使用している人があるが、釣に間する用語の中で最も不快な気分のする一つである。元来表具師上絵師理髪師手品師軽業師など、師の字は如何にも時代じみている。徳川時代の釣の文献「何羨録」には、遊漁者と釣師とは明らかに区別してある。即ち釣師は釣を楽む一面、魚を売ることのあるものをいう。現在尚釣師と自他共に称するものは、必ずして半職漁の意味は含まれていないかも知れず又之を売ることも事情咎むべきものでもないが、「吾々釣師が」とは何うも咽から出し兼ねる。

 釣師が時代的な釣師でなく、天狗の天狗振る所も見えず、新人に対する老漁夫の如き悩みもなく、現代的な紳士らしい智能と趣味との持主であり、或は斯界の明星と仰がれ指導者を以って任ずる位ならば、名称などは何とでもよいようなものの、上絵師が図案意匠家に加えられ、理髪師より理容術が分離し、手品師が奇術師となって、しかもそれが既に奇術がられない今日、何も「釣師」がるにも當らない。そこは遊漁者とでも、愛綸家でも、スポーツマンでもアングラーでも又其実は単に魚釣り或は無名でもよいから、釣師の称呼だけは廃したい。

 所謂釣師の中には、時として事実智識欲に乏しく、頗る模倣的でありながら一面排他的な所があり、徒に多くを求めて誇大妄想に走り、三十年五十年七むづかしい理屈を並べながらも、そこは「逢った時勝負」で何時も同じことを蒸返し、趣味の現実味よりも思出の趣味に生きるような人もある。又不合理な釣り方にも気付かずこれを研究するでもなく、釣場所の狭小となり、魚族の減少に辟易して竿を捨てるものもある。いづれも詰まらない。

 釣は見ても聞いても面白く、自分でやれば其天分だけは楽しめるが、更に新しい智能と研究欲が加われば、初めて其時代にふさわしい趣味が展開されるというもので、釣は辛気臭いとも限らなければ、釣者恰も山師の如きものではなく、合理的に進めば釣り易く親しみ易いものであるべきで、偶然が当然ともなり、苦痛が歓喜に転じ、そこに無限大の世界が拓かるべきである。先輩に就いて見聞することも一法ではあるが、之に頼り之を模倣して果して釣りの三昧境に入るだけの深い趣味を得るか何うか。若しそれで尚満足し得ないとすれば、更に之を他に見出さなければならぬ。イヤ新しく生くる道は幾千もある筈である。

五 新人と原始的な趣味

 斯くいうものの、人間の智能も、まだ頗る便りないもので、よし飛行機で空中征服は出来ても、潜水艇水底自動車以上の水中征服は出来ていない。魚の鰾一つの作用でも色々推定はしてゐるが的確に立証されたものでもなく、かつをの生れ故郷すら分らない。殊に魚には陸上の高等動物の如き表情も少いのと、水中に潜んでいるだけに、どんな氣分で又何をしてゐるのか、専攻学者でも水産家でも分らないことは澤山なことである。釣る上からでも、どれ程歯痒いことがあるか知れない。

 しかしそれが為に、偶然にも或は智的観察が鋭敏な所から、思設けないことを発見し、それから色々なことに氣付いて来て、釣技の上にも多大な自信を得ることがある。又少し頭の良い漁夫に當って見るだけでも、容易に解決し得ることが幾千あるか知れない。天狗の天狗たる所にも亦斯うした発見には随分見る所のあるものである。

 前記太洋島の石ころで魚を集めるよりも、もつと手近な例は、水底のスッポンの鼻の孔から出すに気泡に魚が集る。厳禁されてゐるダイナマイトの爆漁でも、之を投込んだ瞬間、魚は驚いて発作的に静止し或は散ることもあるが、引火中のシュシュシュッと瓦斯の発生する所には魚が集る。して見ると魚を驚かさない程度で水底で気泡を発生させて之を集める考案は出来る筈である。私は少時、金属製の重い水入を沈めて、障碍物の中のうぐひの群を誘出して釣ったこともある。或は氣泡の力で 泥や砂を濁らせて魚を引よせることも、又氣泡なくして、単に濁らせるのみを目的とするならば、せんまい仕掛けの何か作って見ればよい。尚魚の好む臭気を水中に発散溶解せしむる工夫も不可能とは言へない。

 南洋では凧を揚げて其尾で魚を釣り、茨城県の一地方ではお玩具の帆船を流して、其糸に股ばりを下げていなを釣り、北満では氷上にはねつるべを立てて、穴から垂れた糸に魚がかゝると、自動的に魚が釣上げられるといふ。することが極めて原始的だとか子供らしいとか思ふものもあるが、釣は本來狩猟本能の現はれで、そこに何とも言へない人間的な快感を覚えしめ、しかも斯うしてゐる間に色々な智能や感情が動いて来て、創造的氣分の横溢する所に、釣ならでは味へない貴い所が現はれ、それがやがて學界までも裨益することにもなるのである。原始的趣味は捨てられない。

六 模倣より創造の趣味へ

 多くの趣味は、或程度まで目的が達せられると、何時しか顧みられなくなることがある。最初の間は研究々々で熱く硬くなった反動だとも言はれるが、それなら釣も其反動があるかと見ると存外少い。といふのは他の趣味は多く模倣的なものでやる所までやると一寸行詰つて來る。それを今一つ突進するのが容易でなく、そこに苦痛と倦怠とを覚え、中止すると忘れて直に後戻りもする。

 釣は下手は下手ながら、名手は無論のこと、頗る多方面に亘りて創造的な趣味に富んでいる為に、この方面に頭の働くものには、倦怠も覚えねば苦痛も苦痛とはならず、忘れんとして忘られない。したがって右の反動も少いのではあるまいか。欧米の釣魚がアイザク、ウォルトンの獨創的趣味に醇化せられて次から次へと伸展し、我が寛文以来の江戸趣味は岩崎流何流と新釣法続出の時代にて其展開特に著しく、反って模倣的に其趣味を遂ひつゝあつた明治時代には、外面からの色々な反映があつたにもせよ、他の趣味の人に見ると同様な倦怠の色が現はれて居なかったとは言へない。それが又近年に及びて老漁夫を悩ましむるまでに進まんとしつつある釣技の半面には、釣者が頗る人間的に目覚めつゝある上に、新しい智能が働いて、それが更に創造的な趣味の滾々として盡きないことにまで気付いて来ているのではなからうか。

 実際原人時代のあこがれから出発している此釣は、趣味としては科學的にも哲學的にも展開し、更に藝術味が加はつても来る。また本来は外擴的な分量よりも寧ろ内充的なものだけに、単に模倣的な過去の幻影を逐ふのみではなく、新しい機會に触るる毎に、自己に目ざめつつあるのである。それが今後如何なる方面に如何なる創造的な趣味になつて新しい智能感情が現はれて来るであらうか。想へば堪らなく嬉しい。これあればこそ私は病苦に悩みながらも、是等の人達の前途を祝福しつつ本書を書續くる氣分になつたのである。

日本の釣に関しては理論的なものは一つもない。併し日本人は世界中最悧巧なフイシヤーで方法は澤山ある。小さい蚊釣は昔から発明せられて小魚の美しい誘惑物となり、又鵜を操縦しての漁法の巧妙さに於ては一の哲学者である(米國ホルダー氏著「世界の釣魚」)

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釣の呼吸(大正14) はじめに

大正14(1925)年に書かれた戦前の釣り本『釣の呼吸』(上田尚著)を読むシリーズ。現在にも通じる釣りの楽しみ方から歴史、文化まで。今でも納得の内容で読み応え充分!


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