全国遊廓案内(昭和5) 東京府

全国遊廓案内(昭和5) 東京府
公開:2021/08/31 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『東京府』に存在した遊廓を説明します。


東京府

東京吉原遊廓

東京市浅草區新吉原京町、角町、江戸町、揚屋町、仲之町の五ヶ町の一廓が全都遊廓に成て居る。市內電軍は浅草山谷、又は下谷龍泉寺で下車した方が便利である。山谷で下車すれば西へ約四丁、龍泉寺で下車すれば東へ約三丁と云ふ處である。

全國で何千とある遊廓の其の総てが湯女又は飯盛女の進化した者であるが、東京の吉原と京都の島原丈けは、最初から遊女屋として開業されたものである。従って茲の花魁は一段と格式が高い譯で、花魁の事を太夫と云ふのは吉原と島風位なものだらう。最初に遊女屋を開業したのは忠司甚左衛門、又の名を大阪小甚內と云ふ人で、慶長十八年、今より約三百二十年前に今の日本橋芳町へ開業した。其處は淋しい隅田の川岸で、四邊は一面の芳原だつたので名る芳原と命名したと云ふ事である。其後元和三年の火災に逢ひ、直ちに同年三月現在の吉原に移転して今日に至ったものである。庄司甚左衛門は独り吉原の元祖のみで無く、全國數萬同業者の総元祖であると口碑には書いてある。奈良は千二百年前であろと云ひ、島原は八百年前と稱して居るが、何れが真の元祖であるかは判明しない。吉原の現勢としては、引手茶屋が四十五軒、貸座敷業が二百九十五軒、紅唇の娼妓が三千五百六十人働いて居る。震災後の建物は、半永久的な物ではあるが、震前の物に較比べ何れも皆近代味を取入れて、何處も彼處も明るい感じのする純日本式の建方が何よりも悦ばしい傾向である。娼妓の約半分は東京地方の女で、他の過半数は東北地方の女である。制度は寫眞式であるが、家に依つては店の横手に應接所を装置らへて、客と娼妓とが自由に交渉の出來る様に成って居る。斯うした店が益々増加して行く傾向のある事は事実である。登樓してからの制度は全部廻し制で、所謂東京式と云ふ方法である。而して遊興に甲乙二種の等級がある。甲(白券)乙(青券)で、甲は二時間四圓、乙は二時間二圓と云ふ事になつて居る。尤も小店では一圓五十酸でも遊ばしては居るらしい。此の他には四時間、全夜、全晝等の別があるのだが、店に依って多少の相違は流れない。大店でも四時間は五六圓、全夜全晝で七八圓と云ふ事であり、小店の四時間はニ三圓、金夜全晝で三四圓と云ふ處である。料理其他は、特に注文しない限りは一切通さない事に成つて居る。で右は全部遊興稅を含めての勘定であるから面倒は無い。通し物を取れば二割は樓主の手數料として掛けられる事に成つて居る。次に引手茶屋と云ふ事に就いて一寸説明を試み度い。右に云つた事は、客が直接樓へ登った場合の事であるが、もし引手茶屋から貸座敷へ繰込むとすれば、茶屋の席料は取らないが、案内料として一圓取られる。外に晝の物に對して三割五分が茶屋の収入に成って居る。東京の引手茶屋へは藝妓は呼べるけれども娼妓は呼べない。娼妓を揚げるには何うしても貸座敷へ行かねばならない。案内料と云ふのは、茶屋から貸座敷へ案內する其手數料の事である。處で茶屋から妓樓へ送り込んだ客の勘定は、総て茶屋が責任を持つ事に成つて居るので、楽屋としては決して振りの客は取らない事になつて居る。従つて引手茶屋へ揚るには旅館か知人の照介が必要である。廓内には藝妓が大小約百五十人程居るから、茶屋でなくとも貸座敷の方へ直接藝妓を呼ぶ事も出來る。藝妓は二時間一座敷として、玉、祝儀、箱代共で約四圓である。角海老樓、稲本樓、大文字樓、不二樓の四軒は、馴染客以外は引手茶屋から行つた以外のふりの客は揚げない事に成っては居るが事実はふりの客でも揚げて居る。中店は河內樓、蓬萊棲、三河樓、彦多樓、成八幡、君津樓、辰稲辯等である。

附近の名所としては浅草公園があり観音堂がある。妓樓は、

京町一丁目

角海老樓 若島樓 文彦多樓分店 梅よし樓支店 成八幡支店 正直樓 神亀樓
神風樓 大華樓 寶成樓 一福樓 晴梅樓 上吉樓 豊川樓
大八樓 三清樓 文彦多樓 平野樓 三島樓 金盛樓 一山木樓
三喜樓 日光樓 松米樓 吉鴨井樓 第二金山樓 山下樓 豊泉樓
春本樓 田中樓 金山樓分店 金港樓 此玉喜樓支店 喜泉樓 勝山樓
甲州樓 鈴喜樓 三貰樓分店 あけぼの支店 品川樓 長金樓

京町二丁目

乗原樓 文喜樓 新華樓 金よし樓 小文字樓 君津樓 宝来樓
京吉樓 豊満樓 房州樓 一元樓 不二樓 正金樓 萬兼樓
丸芳樓 栃木樓 信洲樓 新東樓 井澤樓支店 新角海老樓 寶玉樓
久松樓 豊川元樓 吉河内樓 新中米樓 新坂井樓 河内樓 大昇樓
第二水当樓 大黒樓 松寶来樓 定寶来樓 花寶来樓 山川樓 松鶴樓
正興可樓 正喜樓 正野樓 松島樓 三富樓 小文字樓支店 油屋

角町

稲本樓 三河樓 小川樓 文東樓 辰稲辯樓 奥州樓 白井樓
新寶樓 鶴本樓 小柳樓 松山樓 金志樓 大喜樓 萬勝樓
百尾張樓 新川樓 富久吉樓 越川樓 開花樓 玉河内樓 愛松樓
千鶴樓 一久樓 兼越川樓 定野樓 寶樓 井澤樓 一力樓
武村樓 海老屋支店 青雲樓 屋富樓 伊勢樓 金山樓 兼鴨井樓
大里樓 豊駿樓 吉坂井樓 遠州樓 増川樓 都州樓 福壽樓
松玉樓 松川元樓 金鈴樓 並山木樓 文の家 友喜樓 勢栄樓
金玉樓 平勝樓 早川樓

江戸町二丁目

中村樓 日吉樓 一心樓 松海老樓 森本樓 川上樓 琴亀樓
光明樓 北濱樓 源氏樓 龍ケ崎樓 新勢樓 寶定樓 相模家
新花井樓 此玉喜樓 真君律樓 愛京樓 日嵜樓 武蔵樓 長清樓
直田樓 第二金玉樓 鶴花樓 橘樓 成岡樓 惠比壽樓 吉鴨井支店
兒彦多樓 山木樓 晴橘樓 正吉樓 玉中樓 第二あけぼの樓 龜甲樓
花井樓 鶴吉樓 金風樓 第二山木樓 満清樓 成晃樓 辰野樓支店
分店梅喜久 世界一樓 西海樓 清河内樓 梅本樓 あけぼの樓 成澤樓
旭樓 兼彦多樓 清川樓 浦島樓 井佐美樓 玉仙樓 三晃樓
和泉樓 生野樓 倉田樓

江戸町一丁目

入船樓 信よし樓 音花井樓 大和樓 玉君津樓 榮山木樓 金小川樓
上州樓 森山樓 幸福樓 三貫樓 文玉樓 成彦多樓 政山木樓
福壽樓支店 久喜樓 辰野樓 石井樓 水常樓 真富樓 福盛樓
梅よし樓 嵜栄樓 辰井樓 此玉喜樓第二支店 信鴨井樓 錦樓 三浦屋
信亀樓 徳兼樓 栄得樓 大文字樓 成久樓 新直田樓 甲子樓
澤本樓 彦多樓 金巴樓 武廼家 福山樓 玉幾樓 金君津樓
豊松樓 梅喜久樓 徳山木樓 三好樓 松泉樓 總州樓 常河内樓
新明樓 鶴寶樓 駒坂樓 水常樓支店

揚屋町

新光樓 寄喜樓 安川樓 君津樓支店 一聲樓 金水樓 金東樓
大関樓 但馬樓 喜多川樓 宮松樓 延松樓 新川樓支店 第三宮松樓
鈴倉樓 第二宮松樓 金寶来樓 美奈登樓 川元樓 金彦多樓 若松樓
第二萬字家支店 信鈴樓 蔦富士樓 信栄樓 松葉樓 中田樓 萬字家支店
春栄樓 いろは樓 山田樓 山賀樓 第二北濱樓 萬字家 成八幡樓
京中米樓 八幡樓 長花樓 高橋樓 高政樓 山陽樓 千代田樓
金喜樓 吉富樓 文清樓 第二三貫樓 正雄樓 大勢樓

の二百九十五軒である。


東京洲崎遊廓

東京洲崎遊廓は東京市深川區辨天町の一廓で、約五萬坪の方形な埋立地である。東京駅からは最も近い遊廓で、市電は早稲田から出る洲崎行きの終點を約二丁程行った處の洲崎橋を渡った袂が大門に成つて居る。東京駅から市電で約十五分位な處である。

茲は元禄十年、今より約二百四十年前の東京湾埋立工事に埋立てられた處で、一方は運河、二方は満々たる海に圍まれて居るので、恰も憂世離れた水郷の感じがある。遊廓は明治廿二年に本郷根津から移轉して來たもので、當時は洲崎の假宅と世の人は稱へて居たが何時の間にか洲崎遊廓と呼ぶ様に成つた。移転當時は僅々數十軒の同業者に過ぎなかつたが、今日では既に二百六十八軒に殖え、娼妓も約二千五百人程居る。引手茶屋も十九軒あって、廓内には藝妓も大小合せて約八十名程居る。

引手茶屋の制度は吉原の其れと略同樣であるから茲では省くとして、妓樓の制度は全部東京式で吉原と略同様であるが、娼妓の玉代は、一等四圓、二等三圓、三等二圓と組合の規定は成つて居る。此れは一仕切約三時間であるが、此の他に一時間、全夜、全畫等の遊び方もある。相場は時々變更するものではあり、且又家の格式に依っても多少の相違は免れない。本部屋は大てい二圓乃至三圓増位で、丼位は出る事に成って居る。勿論藝妓を直接娼樓へ呼ぶ事も出來る。藝妓の玉代は大一時間二圓五十錢、二時間目からは一時間二圓、小藝妓は一時間一圓五十酸、二時間目からは一圓三十錢の割、本金樓、晴光樓、平野樓、中梅川樓、本住樓、藤春樓の六軒は、所謂大店で、ふりの客は揚げないから、馴染以外は何うしても引手茶屋から行かねばならない。然し事実はふりの客でも揚げている、洲崎の娼妓は八割迄は東北地方の女である。妓樓は、

西海岸

益野樓 中喜樓 梅友樓 金花樓 第一光栄 市康樓 亀本樓
源樓 藤増樓 正八幡樓 福梅川樓 川住吉樓 遠泉樓 金村樓
米住吉樓 榮花樓 辰葉山 八甲樓 富貴樓 若紀樓 金旭樓
千代田樓 三富樓 辰荣樓 金泉樓 榮樓 大和樓 金明樓
大元樓 一ノ大廣樓 李正樓 金中樓本店 花野崎樓 岩井樓 金吉樓
明治樓 宮喜樓 紀三鈴 橘樓 愛中野樓 花島樓 梅園樓
真岡樓 兼若松樓 玉住樓

東海岸

橋本樓 壽樓 あさひ樓 鈴八幡支店 新福本樓 昌岩井樓 松島樓
よし花井樓 明治樓支店 一月樓 新福州樓 三州樓 福美佐喜樓 金中樓支店
日光樓 越見樓支店 新藤樓 幸正樓支店 野村樓 金宮樓 金海樓
鈴八幡樓 錦樓 安誠樓 金鶴樓 勇勢樓 高松樓 俵樓
福本樓支店 秀花井樓 國岩井樓 三浦樓 長良樓 富士樓 吉岡樓
栄久樓 金井樓 新金樓 勝栄樓 新田中樓 峰本樓 徳梅川樓
春喜樓支店 小松樓 國岩井支店 秀梅樓 梅川樓支店 音羽樓支店 內田樓
北梅川支店 光栄樓 三州樓本店

南六ノ二

高同樓 鶴榮樓 愛花樓 近江樓 神金樓 竹野樓 萩野樓
北野樓 いさご樓 藤春樓支店 本遠江樓 鈴川樓支店 三枡樓支店 清明石樓
政明石樓 第二北梅川 松月樓 濱住吉樓 福非樓 梅月樓 藤千代梅川
英清川樓 新丸樓 高千代梅 吉田樓 清川樓支店 高橋樓 岸本樓
清川樓 北梅野樓 北梅太樓 二ノ大廣樓 増山樓 花岡樓支店 榮住吉樓
第三北梅川 角北梅川樓 柏樓支店 芳北梅樓 金波樓

北六軒

花岡樓 松清樓 三枡樓 大垣樓 大正樓 埼玉樓 花崎樓
米河內樓 米河內支店 千代田支店 島海樓 音羽樓 鈴木樓 辰八幡樓
大吉樓 北梅川樓 住吉樓 上州樓 高保樓 大清樓 野州樓
武北梅樓 石喜樓 九八 美佐喜樓 券北梅樓 長晴樓 千代梅川樓
梅川樓 第二梅川樓 文梅川樓 清並八幡樓 濱松樓 神喜樓 追柏樓
檸米樓 金村樓支店 松葉家 金海樓支店 東京樓 金辰樓 金幸樓
勢州樓

十軒

新甲子支店 新甲子 川內樓 春喜樓 平遠樓 井筒樓 梶中樓
三日月樓 中梅川支店 中梅川樓 越見樓本店 大八樓 第二德梅川 辰海樓
勝花樓 正直樓 新友樓 平野樓 大黑樓 田中樓 萩原樓
第二花岡樓 富柏樓 柏樓 大野樓 吉遠江樓 澤梅川樓 小泉樓
三島樓 松梅川樓 梶美家 相模樓 金泉樓本店 新吉川樓 かつ叶
鶴梅川 鈴梅川樓 高佐喜樓 新喜多川樓 晴光樓 本金樓

南六ノ一

大平樓 藤春樓 第二北越樓 紀三文 千壽樓 平野樓支店 本住吉樓
福勢州樓 歳野樓 金田樓 藤岡樓 春中村樓 山川樓 西村樓
遠江樓 彥太樓 新八幡樓 昭和樓 明石樓 新並八幡樓 三橋樓
藤本樓 第二春喜樓 宮川樓 吉岩井樓 新明治樓 玉岩井 林樓
開清樓 新濱松樓 澤中樓 中美佐喜樓 雪乃家 岩井樓支店 第二幸正樓
和泉樓 北越樓 中北梅川樓 清遠江樓 栃木樓 三門樓 新明石樓
金月樓 美國樓 藤吉樓 成梅樓 大倉樓 政若樓 政若樓支店
寶來樓 古川樓 林樓支店 新遠江支店 新遠江樓 元大倉樓 三日月支店
末吉樓

の二百六十八軒。


新宿遊廓

新宿遊廓は東京市四谷區新宿二丁目に在つて、市電は新宿三丁目下車省線なら新宿駅の表口から東北へ約三丁の處である。
大正二三年頃迄は、市電通りの甲州街道に沿って娼樓が散在したものであるが、大正五六年頃に今の遊廓に移轉して一廓を為したものである。品川、千住、板橋等と略同樣な経路を辿って発達して來たもので、甲州青梅両街道關門の宿場女郎であった。寶暦年間頃から発達した遊里が、享保年間に一時中止を命ぜられた。然し安永の初めに再び飯盛女として許可されたので、宿場女郎として大いに發展しつつ明治に至つたものである。目下貸座敷は五十三軒あつて、娼妓約五百六十人居る。福島縣、宮城縣等の女が多い。店は寫真店で、娼妓は全部居稼ぎ制である。遊興は廻し花制で、通し花は取らない。費用は、玉も比較的美いのが居る丈けに、比較的割高な様である。即ち普通の家で本部屋が臺なしで五圓小店でも四圓はかかる。臺の物無しで二等は四圓、三等三圓、四等二圓五十錢、五等は一圓五十錢と云ふ處で、割部屋である。尤も同じ廻し部屋でも、品川や、板橋の様に古くない丈けに幾分は明るい感じがする。其れでも大引過ぎなら一圓位で安く一泊が出來るさうだ。妓樓は、

新勢州 福勢州 勢州 藤本 券萬年 鶴蓬莱 不二川
蓬萊 竹乃家 大萬 新石橋 第二湊 倉田 第一湊
八幡 金波 鈴元 岩本湊屋 金盛桐屋
三福 辰村 今日 第二蓬萊 二樂 新鈴元 巴屋
蔵勢州 平勢州 鈴岡 井勢州 新萬年 萬年 廣島
玉喜家 新港 大倉 稱岡 住吉 萬岡 三吉
三井 丸岡 玉利屋 新玉 千登世 不二岡 新萬
金泉 越前 大政 松美

品川町宿場

品川町宿場は東京府荏原郡品川町字本宿に在つて、市電は品川終點、省線は東海道線品川駅から南へ約五丁、何れへ下車しても他の乗物へ乗る程の距離は無い。

昔東海道へ旅立をする人があれば、見送り人と共に茲で飲んで別れたものださうだ。見送りに來て遊女屋へ泊り込んで終ふ者や、旅費を皆茲で費ひ込んで、旅行が出來なく成った者等もあった程で、昔は随分と盛つたものらしく、又花魁の質も今よりは一飲もニ段も上だったに相違無い。「品川で口がすべると愚僧なり」と云ふ古川柳がある様に、舊幕時代の上顧客は芝山内近傍の坊さん達だつた。明治維新の志士等も可成茲へは出入りしたものらしく、「品川は薩摩ばかりの下駄の音」等と云ふ川柳も残って居る程だ。慶長六年に宿場の旅籠屋渡世が飯盛女を置き出した事が茲の花街の濫觴で、遂に德川幕府の初期頃に、千住板橋等と共に遊女を置く事が許可されたもので、歴史としては可成古い方である。延享年間の全盛時代には五十二軒の妓樓があつたが、一時淋れて半數程に成り、明治に成つてから再び盛り返して、現在では貸座敷が四十三軒あり、娼妓は四百名居る。福島縣、三量縣等の女が多い。島崎、土蔵相模、片山樓、榎本優、大百足樓等の御湯屋式の老舗に登樓ると、流石に二三百年も以前から続いて來た家丈けあつて、廊下や柱等は黒光りがして居り、天井は煤けて黒く障子の桟の角が摺れて丸味を帯びて居たりする處等は、誠に古色蒼然たる感じがして、一種のなつかし味を感ぜしめられる。店は写真店で、娼妓は居稼ぎ制で、遊興は廻し花制だ。費用は小店最低が一圓五十銭、二圓三圓四圓と云ふ所で、四圓からは本部屋である。中店の最低が二圓、本部屋は五圓からだ。大店では最低三四圓で本部屋は八九圓と云ふ所だ。簡単な臺の物が附く。他は全部臺の物が附かない。右は全部宵から一泊が出来るのだ。藝妓の玉祝一時間二圓四十錢、妓樓は、

志々倉 あまの 福原 浅井 石井 追藤 床崎
今井 鈴木 海野 高橋 片柳 横井 末松
矢島 市川 金子 坪井 永田 片山 榎本
島崎 梅 大百足 大吟 浪花 福井 土蔵相模
木崎

千住町遊廓

千住町遊廓は東京府南足立郡千住町、宇千住四丁目に在つて、東京市電車は北千住終點で下車する。市電は七錢、大橋から先は郊外料三銭である。終點から遊廓迄は西北へ約五丁位なもの。

昔奥州街道口の國道に沿ふた、各旅館では、飯盛女を大勢置いたのが濫觴で、大正八九年頃迄は、宿場として昔の儘の古風な「湯屋式」の店構へであつて、同業者もたつた十三軒きりだつた。處で大正十年三月に現在の指定地へ移転すると間も無くあの大震災に逢ったが、幸にして類焼を免れたので、吉原、洲崎の客がどしどしと茲へ流れ込み、急に異常な發達を遂げた。現在では貸座敷が五十三軒に殖え、娼妓も三百三十人に成って居る。福島縣、栃木縣の女が多い。店は寫眞店で、費用も制度も殆んど新宿と變らない。只新宿の様な大店が無い丈けだ。居稼きで、時間廻し制で、費用は御定り一時間遊びが一圓五十錢が組合の規定、臺は附かない。他に甲乙の種類があつて、甲は本部屋で半夜十二時迄が八圓、乙は廻し部屋で半夜十二時迄が五圓である。十二時以後からの一泊も矢張り同値だ。(税共)此れで臺が附かないのだから決して安い方では無い。勿論廻しは取るのだ。通し物には樓主が五割を掛て請求する事に成って居る。藝妓は奮町から呼ぶので俥賃が五十銭、(大小一組)である。玉代は一組、二時間一座敷一圓五十錢だ。太鼓か入るので必ず一組と定まつて居る。妓樓は

佐野樓 大塚樓 松島樓 旭樓 立川樓 杉本樓 豊甲子樓
壽樓 廣島樓 第二廣島樓 第三廣島樓 正栄樓 魁樓 一鶴樓
蓬莱樓 池田や 上州樓 琴川樓 山杉樓 一山木樓 清風樓
新甲子樓 第一甲子樓 第二甲子樓 第一二月樓 愛知樓 一月樓 永岡樓
第三甲子樓 玉川樓 若山樓 昭和樓 神吉樓 吉田樓 第五甲子樓
甲子樓 中田樓 大野樓 三日月樓 三河樓 本田樓 清風樓支店
金桝樓 岡本樓 武蔵樓 新福住 福住樓 新寶樓 大栄樓尾張樓 大阪樓 いろは樓

の五十三軒である。

板橋町宿場

板橋町宿場は東京府北豊島郡板橋町に在つて、山手線板橋駅から北へ約三丁、市電巣鴨終點から乗合自動車で行けば、下板橋で降りる。賃六錢。

板橋は中仙道の関門で、昔は東京と全然獨立した宿場だつたが、今では完全に東京と町続きに成って、行政上に於てこそは分離して居る様なものの、事実に於ては完く東京市內と殆ど異る處は無い。妓樓は町に散在して居て、今だに宿場の儘に成つて居る。建物も古風な格子造りで、宿場気分の旺溢して居る處が悦しい。妓樓は十二軒あつて娼妓は全部で九十八人居るが、山形縣の女が最も多く、次は此の近縣の女である。店は陰店を張って居て娼妓は全部居稼ぎだ。遊興は時間制もあれば廻し制もある。費用は一時間遊びが最低一圓から二圓位迄で、引け過ぎからの一泊は二圓位である。御定りは二圓五十錢位で臺の物が附く。藝妓も五十人は居るらしい。妓樓は、岡部、千代間、新藤、千代本、平野、中島、今泉、藤萬、柏木、伊勢本、藤武蔵、川越の十二軒である。全部廻し部屋で本部屋は無い安い遊びをすると割床等に追ひ込まれる事がある。


調布町宿場

調布町宿場は東京府北多摩郡調布町字上布田町に在つて、新宿追分から京王線に乘り、調布停留場と、布田停留場との中間に在る。中央線境駅から南へ約一里十町の地點に當つて居る。追分から布田迄片道廿四錢。

昔は調布を五宿と云つた。飛田給、上石原、下石原、小島分、布田、國領の五宿があったからだ。調布町と成つたのは、明治卅年に此の五宿が合併してから以後の事である。今の女郎は其の當時からの遺物である事は云ふ迄もない。目下貸座敷は三軒あつて、娼妓は二十一人居る。栃木、茨城、及東京附近の女が多い。のんびりと落附いた田舎の宿場氣分を味はい度い人は行くが善い。郊外の悠暢な町である事は請合だ。店は陰店を張って居て娼妓は全部居縁ぎ制、遊興は廻し制で、通し花は取らない。費用は本部屋が五圓五十銭で臺が附き、一等は五圓、二等は二圓五十銭で臺は附かない。妓樓は桝花樓、明保樓、當麻樓の三軒である。

附近には多摩川、布田天神宮、近頃売出しの京王閣等がある。藝妓の玉代は一時間一圓京王閣の帰途等に一寸寄道して素見すのも一興である。

府中町宿場

府中町宿場は東京府北多摩郡府中町字本町に在つて、新宿追分から京王電鐵に乗り、府中町で下車する。南部鐵道府中駅で下車してもよい。何れから下車しても西へ約五丁、大國魂神社の際に在る。

甲州街道の宿場で、今だに古風な宿場氣分の濃厚な處である。只肝心の女が土地の者で無く、ずうずう辯の東北女である事が残念だ。貸座敷が五軒町の中に散在して、娼妓は二十五人居る。店は寫眞式で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。廻しを取る事は他と同様、費用は御定りが二圓で臺の物は附かない。甲は六圓で本部屋に入り酒一本に肴が附く、乙は四圓で割部屋ではあるが酒一本に肴が附く事に成つて居る、東京の好事家が時たま素見にやつて來る事もあるが、只如何にも田舎らしい氣分がすると云ふ丈けで、態々やつて來る程の處でも無い。いろは樓、たつ村樓等がある。

附近には玉川の鮎漁場、大國魂神社等がある。

八王子町田町遊廓

八王子町田町遊廓は東京府八王子市田町にあつて、八王子駅西北八丁位の地點にあつて自動車なら五十錢電車なら高尾行市電で郵便局前に下車、西へ約四丁位ある賃六錢明治初年には甲州街道にある宿場であつて、飲盛女が娼妓の様な役を演じて居つたのであるが、明治卅年頃八王子の大火に見舞はれ見る影もない姿になつた。それ以後八王子の発展が止まつたと言はれて居る。此大災の後に現在の土地に集つて遊廓を成した物である。

現在貸座敷十四軒、娼妓約百人位居つて居稼制で、寫眞又は陰店を張つて居る。娼妓は東北人も相當居る様であるが、戸籍面では東京人が大部分である様だ。八王子は家々に依つて遊興費の御定りが違て居るので人に依つて高いと言ふ人もあれば安いと言ふ人もある。だが一般平均して見ると甲六圓、乙五圓見當で酒付が普通定りである。又一時間なら二圓位であるし、一泊でも丙は三圓、丁はニ圓五十銭位になつて居る。藝妓も呼べる一時間二本であるから一時間一圓二十銭、小は一時間六十錢である。附近には八幡神社、高尾山、城山城址多摩御陵があり東京近海の最適富のピクニックの場所である。樓名は大川樓、いろは樓、宏洋樓、丸岡部、今萬樓、西多摩棲、益萬樓、吉濱樓、但州樓、福萬樓、武蔵樓、徳萬樓、大桝樓。

父島大村宿場

父島大村宿場は東京府小笠原島父島大村東町に在って、二見港の海岸に在るので、岸壁からは一丁と離れて居ない。日本郵船近海航路の定期船は年十五回横濱との往復があり尚此の外に南洋航路船が寄港する。

同じ東京府の中にも、斯うした南國的な気分の所もあったのか知らと思はるる様な所で、臺灣に見る様な熱帯植物が至る處に繁茂して居る。殊に內地人の珍らしがるバナナや、砂糖キビが野良一面に作つて在つて、幹もたわわにバナナの実のつて居る様等を見たならば、何うしても同じ東京府である事を承認しないだらう。事程左樣に南國的なのである。妓樓は「二見樓」がたつた一軒あるきりで、娼妓も三人居るのみだ。何れも女は本島人計りである。店は陰店を張って居て、娼妓は居稼ぎ制、遊興は廻し制で、通し花は取らない。本部屋入りの御定りは二圓で、廻し部屋御定りは一圓五十錢である。臺の物は附かない。藝妓も居ない。客は臺の物を注文する様な事はめつたに無いさうだ。従って通し物をねだる様な事も無い。俚謡「父(父島)を離れて、ワトネ(ワントネと云ふ暗礁)を越えて、行けば母島乳房山」附近には亀の池、二見港等があり、バナナ白砂糖等が名產だ。


 ↓↓↓ 全国遊廓案内一覧はこちら

全国遊廓案内(昭和5) はじめに
全国遊廓案内(昭和5) はじめに

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

 ↓↓↓ 遊廓言葉辞典はこちら

全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、遊廓に関連している言葉の意味を説明しています。(遊廓言葉辞典)


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