全国遊廓案内(昭和5) 福岡縣

全国遊廓案内(昭和5) 福岡縣
公開:2021/09/08 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『福岡縣』に存在した遊廓を説明します。


福岡縣の部

門司市馬場遊廓

門司市馬場遊廓は顧岡縣門司市內本町四丁目に在って、九州本線門司驛で下車すれば東へ約十丁の地點である。

門司港は神宮皇后が三韓征伐の時に兵船を出した處で、和布刈神社には其の由緒が傳へられてある。然し門司港の發展し出したのは極最近で、横濱や神戶等よりも更らに更らに新らしい。門司は九州の門戶であり、九州鐵道の起點であつて、横濱神戸に次ぐ大貿易港である。門司をして斯く迄發達せしめたものは、其の位置の重要な事と、港湾の良好な事と、石炭の輸出港であつた爲めである。現在此の遊廓には貸座敷が十五軒あつて、娼妓が約百五十人居る。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎ制である。送り込み制はやらない。時間制で廻しは絶對に取らない。御定りは甲八圓、乙六圓、丙四圓で一泊が出来る。外に一時間遊びは二圓三十錢である。藝妓を呼べば一時間の玉代が一圓十二錢。

妓樓は、第一遊喜樓、一楽亭、月見樓、みどり、文珠樓、梅の家、明月、吉の家、玉家、進華樓、第一玉川樓、玉翠樓、松月樓、集楽樓、鶴の家等である。

小倉市旭町遊廓

小倉市旭町遊廓は福岡縣小倉市舟町字旭町に在って、九州線小倉驛で下車すれば東へ約三丁の位置である。

小倉市は小笠原氏の奮城址で、門司港が現在の様に發展しなかった前は九州の關門だつた。人口約六萬、小倉織、洋紙、ロープ等の産地で工場が多い。東京製綱第二工場、小倉製鋼、大正電球、小倉製紙、九州電化、大阪曹達等が其の重なる物であらふ。此茲には又師団指令部もあり。玄海灘を一望の許に納めて風景絶好の地である。宿場としての歴史は判明して居らないが、遊廓の開設としては明治十六年で、北九州では博多の次ぎである。

現在貸座敷業が三十軒あつて、娼妓が約二百五十人居る。全部居稼ぎ制で怒り込みはやらない。店は陰店を張って居て寫眞は出して置かない。時間制だから廻しは取らない。従つて本部屋のみで廻し部屋と云ふ物は無い。御定りが七圓で一泊が出來、一時間遊びが二圓である。藝妓は這入らない。

妓樓は、松月本店、松月支店、滿賀壽美の家、嬉野、有明、新よろこぶ、酔月、浪花、以呂波、豊山、生駒、呑海、清觀、瓢家、栄楽、天眞、川定、喜楽、曙、千帆、明月、大吉、栄守、三勢、美満壽、敷島、相生東、大正、の三十軒。

八嶋市白川遊廓

八嶋市白川遊廓は福岡駅八幡市白川町に在って、九州線枝光驛で下車しても宜く、又は八幡驛で下車しても宜しい。何れで下車しても約六丁程の距離である。枝光驛よりは南に當つて居り、八幡驛よりは北に向つて居る。電車の便があつて、北本町で下車すれば宜しく何れも五六分間で到着し、賃金は金五錢である。

此邊は一帯に工場地帯であつて、九州化學工業、安田製釘所、九州耐火煉瓦、旭硝子、三菱骸炭、八幡製鐵等の煙突が林立して煤煙の為めに天日も暗い程の光景である。斯様な狀態に在るので、八幡市は急激な発展を遂げ人口は既に十萬を突破して居る有樣である。従つて其反影たる遊廓の發展は素晴しく遊廓の許可された大正四年当時は、僅々數軒の同業者に過ぎなかつたものが、今日では二十六軒に殖えて居り、娼妓の數も二百七十人を數へて居ると云ふ盛況だ。茲は純然たる遊廓に成って居て、店は全部陰店である。娼妓は居稼制で送り込み制では無い。而して遊興は時間制で廻しは絶對に取らない事に成つて居る。遊興費は一時間約二圓、御定りは終夜六圓、其他甲七圓、乙六圓、丙五圓、と云ふ種類がある。甲の娼妓は、藝妓の鑑札をも所持して居る所謂二枚鑑札の女が相方に成る事に成り、乙と丙は普通の娼妓が相方に出る事に成つて居る。稅は酒肴料には掛らないで、玉代に對してのみ一割二分六厘丈け附く事に成つて居る。茲の藝娼妓は主に九州地方の女で、殊に島原方面の女が多い。

里謡「見せてやり度い此の九州の、山に石英町には工場、湊々に船が着く。よんこらささ」

妓樓は、日の丸樓、壽樓、大福接、大光樓、金盛樓、駒音樓、第二敷島棲、一楽樓、松鶴樓、敷島樓、三栄樓、大阪樓、福壽樓、更進樓、柳家樓、泉樓、玉満樓、圓成棲、共榮樓、八幡樓、角末樓、第一樓、松浦樓、清輝樓、幾世樓、第二泉樓、計廿六軒。

直方町遊廓

直方町遊廓は福岡縣直方町にあつて、筑豊線の直方驛へ下車し、二字町迄乗合自動車で行く。

妓樓は十五軒、娼妓は百二十名位居る。御定りは一時間二圓三十錢位で、一泊は四圓、九圓、六圓と色々がある。勿論臺附きで、廻しは取らない。

若松市連歌町遊廓

若松市連歌町遊廓は福岡縣若松市連歌町に在つて、筑豊線若松驛で下車すれば北へ約六丁の地點である。

若松は筑豊線の起點で、人口約八萬、門司を凌ぐ石炭出港である。若松の生命は石炭である。いや若松其者が既に石炭の為めに生れた市だ。寛延元年に筑豊炭が發見されてからの歴史は可成古いものであつて、此石炭が土臺と成って出來た大工場は数多くある。石炭を輸出する帆船が常に數千隻宛も碇泊して居る壮観は實に東洋一だと云ふ事だ。此處の遊廓は明治三十四年六月十六日に許可されたものであるが、其の前身は私娼及び宿場女郎であつた。

現在貸座敷が十軒あつて、娼妓は約百十人居る。店は陰店式に成って居て寫真は出して無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制で廻しは取らない。御定りは臺五圓、夜六圓と云ふ事に成つては居るが、四圓でも三圓でも揚げる。一泊するには何うしても七圓及至八圓は掛ると思はねばならない。

此處には船頭小唄と云ふのがある。
「船頭小唄に港は暮れて月に墨絵の高塔山」
「主は若松わしや姫小松ぬれて色ます女夫松」

妓樓は、明月樓、第一いろは樓、福柳樓、若戎樓、若薬樓、松月、福壽樓、大吉樓、大正樓、第二いろは樓、等。


福岡市新柳町遊廓

福岡市新柳町遊廓は福岡縣福岡市住吉町字新柳町に在つて、鹿児島本線博多驛から西へ約七丁、市電は新柳町へ下車する。賃二錢。福岡は黒田氏の舊城下で、茲は昔から支那貿易の市場として知られて居た。昔は茲に太宰府が在った程で、行政上にも防禦上にも重要な土地だつた。博多織、博多人形、博多焼、筑前琵琶、平助筆等の産があつて人口十三萬餘、九州の都と云はれて居る山田長政の築いた名城の城址は、今兵営に成って居る。

此處の遊女は數百年以前からあつたものだとされて居る。近松の「博多小女郎浪枕」で世間に知られて居る様に、意氣と、張りと、情とに滿ち充た遊女として一般世駆に通つて來た所丈けに、今尚其幾分の傳統を受け継いで評判が普い。

目下貸座敷は四十二軒あつて、娼妓は五百二十人居る。佐賀、長崎、熊本縣人が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制と、通し花制とあつて廻しは取らない。費用は御定り一泊が七圓五十錢で臺の物が附く。尚外に甲六圓、乙五圓、丙三圓等と云ふ遊び方もある。

妓樓の著名なるものは、一楽亭、第一明玉樓、伊呂波樓、九十九樓、花屋、外四十二軒である。

附近には、太宰府、城址、益軒の墓、西山公園等がある。

博多節
「博多へ來る時は一人で來たが、歸りは人形と二人連れ」「博多柳町柳は無いが女郎の姿が柳腰」

久留米市櫻町遊廓

久留米市櫻町遊廓は福岡縣久留米市原古賀町に在つて、鹿兒島線久留米驛で下車すれば東へ約十丁、乗合自動車の便もあつて賃金は十錢。

久留米は有馬氏の奮城下で十八師團の指令部があり、久留絣、足袋、藍胎漆器等の特産がある。又此處には、京の三條の橋上で御所を仰ぎ、悲憤の涙に呉れた高山彦九郎の墓があり、又有名な水天宮様がある。東京の人形町に在る流行神の水天宮は茲の分社だ。

現在貸座敷が二十三軒あつて、娼妓が百五十人居るが、多くは福岡縣と大分縣の女。店は陰店を張って居て。娼妓は全部居線ぎ制である。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は御定り甲(一泊)四圓、乙(一泊)三圓であるが、外に菓子代五十銭、税が約一割掛るから約四五圓位と悪はねばならない。外に二時間遊びもあって二圓である。

娼樓には、改心、松竹、二見、西松月、大阪屋、新三浦屋、第二松月、東、豊榮、一栄、辨天、福桝、日本亭、高砂、笑福、惠比壽、福壽、若喜、三遊、對山、清川、萬喜、豊新等がある。

若津町彌生町遊廓

若津町彌生町遊廓は福岡縣三渚郡大川町字彌生町に在つて、鹿児島線久留米驛、又は矢部川驛、長崎線佐賀驛、何れの驛で下車しても宜しい、何れの驛からも乗合自動車の便がある。

寶暦年間に、時の領主有馬豊光氏が、領内の犬塚にあった遊廓を、當若津に移轉せしめた時に始まつて、現在に至つたもので、目下貸座敷は十八軒あり、娼妓は百卅人居る。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制と通し花とあつて、廻しは取らない。費用は甲が六圓で、乙は五圓である。何れも臺の物が附いて来る。

妓樓は、大川、一樂、満金、文盛、松鶴、若松、筑紫、玉國、千年、新盛、喜樂、眞川、快心、梅月、開化、一力、青木、丸八、の十八軒。

藝妓の玉代は一時間一圓。

「大川名物長持タンス、何處の嫁女の道具やら、若い大工さんの血は躍る」
「飲みに行くなら彌生町の廓、三味や太鼓で花宗踊、酔ふた心地が百薬の長」

大牟田市遊廓

大牟田市遊廓は福岡縣大牟田市新地に在つて、九州本線大牟田驛から西へ約七丁の個處にある。大牟田も石炭の市で、本邦第一の三池炭田の為めに繁華と成つた市だ。此の石炭を輸出する為めに三池港を築港して開港場と成った。三池炭礦は三井の経営であり、三池港の築港も三井の獨力でやつたものだから、「古川家の足尾」の様に、「三井家の大牟田」と云つても決して過言ではあるまい。

茲は明治四十五年に始めて遊廓の許可を得たもので、目下は貸座敷は二十一軒あつて、娼妓は百八十人居る。熊本縣、福岡縣の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居接ぎ制、遊興は時間制、又は通し花制で、廻しは取らない。費用は、御定りが五圓で一泊が出来、臺の物も附いて來る。

炭坑節
「アー三池七山、山から出るは、ヨイヤサ、國の寶ぢや、ヤーレハもゆる石、オヤ掘出せ掘出せ」
「アー沖には入船港にや出船ヨイヤサ、積むは三池のヤーレハ黑ダイヤオヤ積出せ積出せ」

妓樓は一新樓、大正樓、己浦屋、第二一新樓、大吉樓、明進樓、一樂、松の家、緑屋、日進樓、福栄樓、新正樓、若仕樓、第二福栄樓、正角膜、角海老、第三福榮樓、日吉樓、四山樓、金波樓、丸新樓、の二十一軒。

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全国遊廓案内(昭和5) はじめに
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昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

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全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
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