このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『熊本縣』に存在した遊廓を説明します。
熊本市二本木遊廓は熊本縣熊本市二本木町字二本木にあつて、鉄道は九州本線熊本驛へ下車し、驛から東へ約三丁位の處にある。
此の二本木遊廓は相當古くから存在して居たものであるが、明治十年の兵乱後散在して居たものを集娼制度に改めて創業したものであつて、以前奮藩時代は市內京町を中心に散在して居たものであつた。総軒數七十三軒娼妓六百六十人位居り、娼妓は送り込み制ではなく、全部居稼ぎ制である。店は寫眞制もあれば陰店制もある。遊興は廻し制ではなく、大阪式時間制又は通し花制である。御定りは六圓乃至七圓で、遊興税含みで二三品料理と酒一本位付くのである。藝妓を呼べば一時間玉代六本で一本十六錢であるから、九十六錢となり、之に送り込み花二本卅二錢が付く民謠、明治三十三年に内務省令が發布せられて自由農業を認めらるるに至つて、東雲樓全盛時代に多數娼妓の自由廃業者が出て此の歌を流したと言はれて居るが、全國的に廣まり渉つたと云ふのも面白い事ではないか。
文句「東雲のストライキ、さりとはつらいなあ、トカ、ナントカ、オツシヤリマシタカナアー」
熊本市の舊時は五十四萬石細川氏の城下で、市内には熊本城の城壁や濠が未だに現存して居る。又隈府町の宗城山には官幣中社菊池神社がある。此の神社は南朝の忠臣菊池武重以下五氏を祀ったもので、櫻樹が多く眺望絶佳である。
附近には水前寺があって、豊前耶馬溪羅漢寺の僧玄宅が創建したもので、當時熊本人が九州第一の庭園と誇つた所であるだけに、假山泉石を極めた處として有名である。本妙寺の清正公は、清正が此の地に封ぜられて、死後、其の子忠廣が霊廟を創建して公の衣服、甲冑、槍刀、七字族等を寶物として蔵して居る處だ。
主な妓樓は東雲樓、橋立樓、舞鶴樓、幸樓、都樓、旭屋、松龜樓、板倉樓、高砂樓、三遊樓、一東樓、松鶴樓等。
三角町遊廓は熊本縣字上郡三角町に在つて、三角線三角驛から西へ約二十丁、乗合自動車の便があつて、賃二十錢である。驛から港迄は二十丁も離れて居る。驛は字土半島の尖端に在つて、非常に風光の雄大な處である。茲から天草郡島巡りをするのも面白い。長崎、天草、米の津への汽船便が出る。
貸座敷は目下六軒あつて、娼妓は四十人居る。殆んど熊本縣の女計りだ。店は賑かな張店であるのは頼もしい。娼妓は全部居稼ぎ制で、送り込みはやらない。遊興は通し花制で、廻しは取らない。御定りは臺付一泊が五圓である。
妓樓は、いろは樓、丸吉樓、一力樓、朝日樓、老松樓、相生樓、の六軒である。
中深遊廓は熊本縣天草郡中深町にあつて、字土半島三角港から汽船に依つて中深港に行くのだ。
現在貸座敷は四軒あつて娼妓は約三十人位居り、御定りは五圓、六圓見当で、臺附となつて居る。一時間遊びには臺無しで一圓五六十錢位。何れも廻しは取らない。
八代町遊廓は熊本駅八代町にあつて、鹿児島本線八代驛で下車する。現在貸座敷は七軒あつて、娼妓は約六十名位居り、店は陰店及寫眞の両性である。大阪式時間制又は通し花制で、廻し制は取らない。一泊六圓と五圓とあつて各酒肴付である。球磨川には八代に來て海に注いでいる。球磨川の急激な清流は、鮎を多く浮べて居る事によつて此の地の名物となつて居る。松江城は町の中央にあつて、官弊中社八代社がある。
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