このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『鹿兒島縣』に存在した遊廓を説明します。
鹿兒島常盤遊廓は鹿兒島縣鹿兒島市鹽屋町に在って、肥薩線鹿兒島驛で下車すれば、南へ約三十丁、鹿兒島本線西鹿兒島驛で下車すれば、東へ約三十丁の地點である。乗合自動車は思案橋で下車し、市電は新屋敷で下車すれば便利だ。
明治二十二年の四月に始めて貸座敷業の許可を得もたので、市內春日町、濱町、向江町等に散在して營業を開始したのであつたが、明治三十二年九月三十日に、鹿兒島停車場が設置される事に成ったので、現在の場所に移転して一廓を成したものである。開業當時は十三樓しか無かつたものが、今日では二十三軒に殖えて、娼妓も目下の處では三百五十三人居る。娼妓の多くは本縣の女である。店は陰店に成つて客と交渉する事に成って居り、居稼制で送り込み制では無い。時間制で廻しは取らない。御定りは三圓五十錢で席料が一圓取られる。一泊は税共六圓六十錢である。
妓樓は、色葉樓、柳樓、一楽亭、萬々樓、松島樓、三福樓、四海樓、常盤樓、若松樓、東海樓、野上橋樓、若藤樓、錦波樓、篤樓、東雲樓、朝日樓、都樓、三浦樓、三島樓、東京樓、開盛樓、等がある。
茲は奮島津家の城下で、熊本藩と共に九州の二大雄藩であった丈けに、市街も中々繁華である。十年の役には市街の大半が兵火の爲めに焼かれたが、今では昔に優る立派な街に成つた。西郷隆盛の籠つた城山城址は直ぐ目の上に望まれ、隆盛の墓のある浄光明寺や、別格官幣社の照國神社も此の市内にあるのだ。鹿兒島は言葉が一つの名物に成つて居る。
はんや節「はんや−え、おはんと(あなたと)はつちこや(駆落しませうや)てこ(太鼓)さんせん(三味線)かるて(背負って)どこも日が照る雲の下」
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