釣の呼吸(大正14) 釣は魚から習ふ

釣の呼吸(大正14) 釣は魚から習ふ
公開:2021/09/18 更新:

大正14年(1925)に書かれた戦前の釣りに関する本、『釣の呼吸』(上田尚著)の中から、今回は「釣は魚から習ふ」についてご紹介する。


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釣の呼吸(大正14) はじめに

大正14(1925)年に書かれた戦前の釣り本『釣の呼吸』(上田尚著)を読むシリーズ。現在にも通じる釣りの楽しみ方から歴史、文化まで。今でも納得の内容で読み応え充分!


釣は魚から習ふ

一 魚を知らぬ魚釣

 一寸ボールを打つのでも、日頃投手の投げ方や其変化を呑込んでいると、確にバット持つ手が冴えて来る。勝負は時の運としても、胸中既に成算あるだけに打易く、先づ惨めな三振から免れる。商売 でも巧に客の心理を捉へた店は發展する。釣をするにも其封手方の各魚族の習性を知ることが、第一の要件で、之を知れば知るほど面白味が増して来る。

 所が人は妙なるので、英国の退役将校の書いた「鱒と川」といふ本を見ると、多くの釣者には、餌と仕掛とさへあれば、それで魚は釣れるもののやうに、封手の魚の習性なども究めずして出掛ける。甚しいのになると僅々一種の餌しか知らないでそれで二十年三十年同じことを繰返し、一廉の天狗を以って自任して、しかも何等釣技の進歩も趣味の展開も見ないものが居るが、同じく楽しむのに斯んな馬鹿気たことがあらうかといふ意味ことが載っている。

 釣の天狗には、水の中から生れて来たやうに話すものもあり、事実一方に於ては大なる自信を有するものもあるが、更に色々と魚に関することを聞いても見、実地に就いて當つて見ると、存外疑問の節も発見せられ或は実際意外な不覚を招くことも見受ける。又初心者には、唯面白さうだから一つやつて見やうかといふ好奇心から、釣具店で聞いたまま飛出し、先着の釣手の横で取敢ず竿を打込む。餌が何う動くか、魚がどちらを向いてゐるかも知らずして、當りがなければ、釣は駄目だと、竿をへし折って水に投込んで帰るといつたこともやる。 こんなことで若し魚が釣れるものならば、それこそ釣は詰まらない趣味である。 又自己の不明を悟らず、魚を知らずして釣を便りない駄目な娯楽とするなどは、いよいよ詰らない譯で、これでは何をしても駄目になることは請合である。

 最初釣りたいと思ふ魚の種類は、さう数あるものでもなく、又大望を抱く譯もないとすれば、その一つ一つの魚に就いて、一応は精細に観察もし、人にも聞きすれば、大して面倒なこともなく、又これだけ科学も進歩した今日、自分も幾分その常識あるものならば、そこに簡易な方法を見出しなどして、それだけ趣味も深く且事実釣れることになるものである。

 釣だけはコツで行くといふが、中々さうばかり言ったものではない。 そこは矢張合理的に進むほど確なことはない。十年二十年精進男で通らなくとも、単に二三回の試みで天狗を呀ッといはしむる位のことも出来る。そこは色々な観察研究から出発したものであらねばならぬ。商賣は客から習ひ、釣は魚から教はる。面白くてすることに下手はない。 先づ其積りで弗々やることである。

二 魚族習性の見方

 魚を知ることが、釣の第一要件とすれば、数多く之に接近することを先づ心掛ける。川べり又は海浜に運動に出た序に、水中の魚の実生活を見、公園の池や水族館では、魚の動作や食餌の喰ひ方などに注視し、夫等の機會に乏しいものは、魚屋の籠の中でも、市場の前を通る折などに、季節々々の魚に當って見、生簀の中の活きた魚を覗込み、魚を調理して見て、その口元の形や口元から出た鉤、或は鉤のあと胃腸の中の食物まで吟味し、魚屋漁夫魚學者にも、うるさい位に聞廻り、まだ乏しくば、参考書を精読しなどして何等かの予備知識を求める。釣るといふ一の目的をもって之を見聞するとなると、接することが以前のものと、丸で変わったかと思ふほど趣味の深いもので、しかと頭に入って来る。

 魚の体型からいふと、海のはも穴子うつぼ、川のうなぎなどは、底をぬたくる所は一寸兄弟分のやうにも見えるが、その口元や皮膚面の色彩斑紋から、小骨の有無などを見たのみでも、それぞれの習性も居所も自然変つてゐることが分り、これを参考書や専門家に就いて調べると、なる程釣る上に工夫もあるといふことが判明して来る。こち鰈えひの如き平たいものは砂泥の底にいかり、鯖や鰹のやうな形の魚或はすずきの如きは、如何にも水中を自由に活躍し得るやうに出来て居り、魴鮄やなまづの如き頭の大きなものは、それらしい動作をする。

 又その体色の異な所に少しく注意すると、大会の蒼い波の色に似たもの、藻草や底の石の色に擬ひ居るもの、砂泥に近い色、暗い色、派手な模様などで、凡そどの辺に如何なる生活をして居るかの想像がつく。それ等を頭に入れて見ただけでも、既に単に斯うして釣れと教へられたよりは、得る所も趣味も多くなる譯である。

三 魚の口元と釣餌

 魚の口元は色々の形になつてゐる。下あごの出張つているもの、上あごが被さるやうになつてゐるのや、ウンと突出しているものがあり、胴体に比べて非常に小さく丸いもの、馬鹿に大きく開くのもある。歯の有るもの、殆んど無いもの、同じ歯でも幼魚と成魚とで変るのもあり、鯰の如きギザギザ絨毛の如きもあれば、鯛もぶしの如く丈夫なのや、太刀魚の如き長くて鋭利なもの、鋭利でもふぐ、かははぎのやうな特殊な形のもある。上鬚もあれば、顎の下に生えたの或は胸ひれが其代りかと思ふのも見られる。唇でも薄く軟いもの、幌の如く伸びるもの、硬くて厚いのもある。

 さて造物主が何故こんないたづらをするのかは知らないが、第一その形によりて食餌が変つて来る。口の大きいものは大抵貪食し、同族相食む位は平氣であり、同じ大きくても軟いものは、それに応じた質の餌を求め、それで歯のないものは食餌をしゃぶる。歯牙の強いもの或は唇の強さうに見えるものは、敵襲にも又硬い餌を取るにも適し、ひげは食を探り、口の小さいものは、長い蟲を食するに差支はないとかいふことにもある。

 これを一々魚に就いて異つた餌を喰込む動作を見ると、魚の當り工合を合せる呼吸も自然頭に入る。 水族館で餌を興へる時、或は海川の水面水中の魚の餌を捕食する状態を見てみると、なる程と首肯かるることが澤山ある。殊に腮の形によりては口が大きくても微小なものを摂取し、喉の骨の硬い魚には、これで砕いて呑込むのもあり、腸の太い魚は喰ひしん坊であるとかまで分って来れば、餌の選択にも、直に気付くことになる。又出漁中に齧られた餌を見て何魚かの判断も、之れから出来ることもあつて、中々興味のあるものである。相當の天狗でも、一寸この辺のことを當つて見ると存外それ等に無頓着な人もあつて、あれで何うするのかと怪まれるが、それは単に見真似と聞かじりで、無意識に餌を使用してゐることなども分つて来る。そこは魚から直接教はる方が確質である。


四 魚の鼻と耳

 口元で誰もうつかり想像することは、魚は食餌の味が分るだらうといふことで、あの先祖代々魚に接している漁夫までが之を信じているものが多い。無智な所は憐むべきであるが、魚には夫れ程に味覚機能は発達してゐない。口に入れたものを叶出すのは、味からではなくて他の刺戟から来るもので、舌打ちも旨い口も出来ないとせられてゐる。人間も魚の如きものになつては大変であるが、魚の味覚の乏しいことは、餌から見ても分る。

 鼻も陸上の高等動物の機能とは差異がある。即ち魚はえひや鮫などを除くの外は、呼吸の出来ない所謂鼻つまりであるが、嗅覚は存外敏感で、嫌ひな臭氣のある所には接近しないこともあれば、食餌でも喰ひもしないことがある。そして好きな臭気が水に溶解して刺激すると、それを追うてやって来る。鮫などは実に遠方からでも感じ、鰻の如きは鼻の孔から管のやうなものを伸して嗅ぎつけるので、穴や泥の中に居つても殊に鼻が利く。上海附近の姫き年中赤黄に濁ってゐる海の魚は、眼よりも鼻で食を索める傾向が著しい。臭いものがあると、何ごとがあつて集るかと思ふほど魚が寄って来る。して見れば夜づりの餌には、多く鼻を利用するものを選べばよい。

 耳は或程度までは感じる。尤も頭蓋骨の中にかくれてるから、魚に耳なしなどいふが、それは外耳がないまでのもので、内耳はある。空中の特殊の音は水面近い魚には感じるやうであるが、大体強くは影響しないらしい。雷電を恐れるなどは昔よりも空気の振動を感ずるのではないかともいはれ、お池の鯉や養魚池のうなぎなどの浮いて来るのは音よりも地下に伝はる振動が感じるからだと、学者の実験で明らかにせられてゐる。水中の音は空中よりも伝導は強い。

 魚は物音には恐れて逃出すものとなつてはいるが、右のこひ鰻のみならず、なまづでも海のしいら、小鯖、いな、ちぬなどは、色々な音と振動で集まつて來ることも明らかである。鮎でも巻網の横で、下部に鐵の付いた竹の杖でカチカチ底の石を突叩くと、その辺の石の陰にかくれてゐる鮎が逃出す。併しそれでも海の庭づりでは、櫓で水をかく音、人の話聲などは、殆んど差支ないのである。

五 魚の観力と釣

 魚の眼は割合大きいが、暗い穴の中や非常に深い海底の魚は小さい、概して近視で、回転も不自由である。上下に少々キロ、キロと動ぐ位で、鮫のやうに瞬膜のあるものは極めて少い。あの狡猾で、振動に敏感だとするちぬでも、一二尺の側まで、潜水して接近しても平気でいる。さうかと思ふと、山間の岩魚の如きは人影を恐れうぐひの如きは、竿影や糸の光りを感知し、落ちてくる餌が水面近くになると氣付くらしいことも随分ある。又水面上の三尺の處で金魚が色を見分けた実験も示されている。併し画家の仮想する如く、水面を飛ぶ昆蟲を鯉が飛上つて捕へるなどは受取れないことである。

 眼の位置が上の方についている魚は、底に棲むでいる。はぜ、なまづ、こち、かながしら、かれひ、かさごなどを見ても分る。又さうでなくても、水の下層を泳いでいる魚は、頭部を下に向けてチロチロ餌を求めてゐる。水の上層中層を行く魚は平面を正視するか或は少しづつ上の方を向くか、ちよいちよい体を斜めにして上の方を見る。これで餌の持って行き工合を加減する。

 こゝに釣として考ふべきは、魚が水中のものを何う見るかといふことである。水の深くなるほど暗くなり、白色は薄青くなり、赤が黒くなり、青は群青となる。それは季節又は其日の日光の光度と水の透明度と、空の晴雲、光線の屈折関係もありそこは他の項又は機會ごとに述べるが、兎に角夫等の関係から見ると、近視の魚が凡そどれ程の限界で物体が見えるかといふのである。海士が水底から水面に上る時に見ると、無論段々明るくなると共に視界が広くなるといふ。

 秋の九月頃の晴天に、鮎の釣れる水の色で、音なしで瀞の水面を蝗を流して見て三四尺底のうぐひの目に触れる。薄白い濁で二尺、出水の黒濁りでは駄目、それが一二尺減水といふ頃の濁りで、蟲の落つる音でやって来て、しきりにそれを探して一尺以内位で認める。

 兎に角魚の視力に対しては、餌として見馴れた色、形状、動作などを、右の光度や水の透明度などに応じて加減し、なるべく見易くすると共に、嗅覚或は硬さの適したものを選んで、同時に、物の影糸の太さなどにも注意を拂ふことを忘れてはならぬ。

六 魚の触官と尾の働き

 眼は誤魔化せても口はだませない。魚が釣餌を口にすれば、鉤尖の痛みや昆蟲の口で噛まれるとかで、直に之を吐出して了ふ。故に餌から鉤尖を出さないやうにして喰込ませる。海の魚の餌には硬いいものが多くて喰込みがよいのと、水底は暗い所から、鉤尖を露出しても構はない代り、當りと共に合せる。 口の触覚の敏なること は此点に於て注意すべきことである。

 魚の触手は、前述の如く、鬚やひれの一部に存するものもあり、又皮膚面に頸から尾にかけて一條の側線がある。あれが振動や温度などを感じるらしいのである。其他に於ては余り敏感はないらしい。私は潜水して鯉の側面を撫でていても魚は逃げないことを幾度も知つてゐる。尾で餌に触れて見るといふのは触覚で何かを判断し得るのではなくて、他に目的があるらしい。ちぬなどは、釣餌の周囲を廻っているのを見るが、その時は水を掻く尾が自然に餌に触れるのみのやうである。

 尾は元来背ひれ尾ひれと共に前進作用をするもので、時として水底の砂泥を濁らせて食餌を索め或は身体を入れる為に尾ひれと共に堀越し、なまづの如く尾で餌を打なやまし、あぢの如く尾部の硬い棘は敵を防ぐこともある。胸ひれ腹ひれは、魚体の横転倒転を防いで平衡を保ち、方向転換上下運動の用をなすものである。又はぜやごりの如く腹ひれが圓い杯になって物に吸付くものもある。鱗は物に触れても体を損傷しないやうにする為で、さうした触れ易い物のある附近に棲む魚に多く、水面近くを活発に運動し或は泥の底や藻の中をぬたくるものは、それに都合よきやう、麟が細かくつるつるしているか、皮下に埋没してゐるか、部分的に缺けているか、全くないものもある。これで魚の所在も分る。

 所で釣として注意すべきは、魚は前進運動には夫々相當に働く機能を備へてゐるが、後退するには頗不便を感ずるもので、釣者は魚の餌に飛かかる動作、引込む時の力又は方面などを旨く利用するのも面白いことで、はまち、すずき、ぼらなどを力任せに引よせ引上げ、えひ、かれひなどをあやつるのは、この欠陥を利用し且方向転換の余地を興へしめないことを利便とする譯である。


七 浮ぶくろの作用

 鰾は魚の浮沈昇降を司るもので、自然の潜水艇である。何時も浅い所に居るとか、底にいかつて浮上らないもの、吸着くもの、何時も広い方面に亘つて活躍移動するものなどには、これの無いもの或は必要少いものもあり、なまづの如きは形状組織を異にし、聴覚に関係があるやうであり、又嚢の中の瓦斯 ━多くは窒素━ 、も一様ではない。之が研究は釣る上にも随分興味あるらしいが、私は気付いている所も少く又これに就いて詳細な説明或は解剖を見聞したことはないから、先づ一般的なことのみを述べる。

 浮ぶくろは、その周囲の筋肉血液などによりて、瓦斯の容量を増減し、体の比重を調節する為で、魚自身の運動する範囲に適応した機能を有するのみであるから、さう一気にどこまでも上下する譯には行かない。之には相當時間を要するのであるそこで釣と浮ぶくろとの関係が生じて来る。

 即ち沖釣をやった人は、誰も体験することであるが、深い水底から魚を引上げるのに、最初は中々豪い勢で魚が走り出し或は藻掻ぐ。夫れが中途で急に軽くなつて、魚が逃げたのではないかと思つてゐると、水面近くなつて又重くなる。これは引上げる手の速度よりも、魚から上つて来る方が速いから軽くなるのである。 無論何の魚でもという譯ではないが、常に之を知る。しかも何故軽くなるかが分らない。無論上るほど水圧が軽くなるといふのであるが、急に軽くなるのは何うか。

 釣者から一定度の水深を引上げられると、魚は急激に浮ぶくろの調節をすることの出来ない為に、嚢中の瓦斯が膨脹し、運動の自由を失ふのではあるまいか。甘鋼は道糸で目測約四五尋、小鯛の三四寸で約二尋、ぐちで二尋半乃至三尋で軽くなる そして大抵は口から内臓を吹出しかけてゐるか、腹部が極度に膨脹して、生簀に入れても仰向に浮上り、放任しておくと死するのが多いので、口先のブクを鉤尖で破り或は後肛門部より竹の串を魚体に沿うて差込み、瓦斯を排泄する。

 兎に角、各魚の浮ぶくろ大小及形状と浮沈の調節機能とを少しく注意して見ると、幾分でもかけた魚を引上ぐる上の危険を脱し又は走込みの緩急を計ることも出来ると思はれる。しかして其大小及形状は調理の際之を見分けておくのみでも参考になる。因に生簀で瓦斯を排泄しても斃死することのあるのは、あれは多く水温の差を生じ又は針の仕方を誤るによることである。

八 知るべき習性の数々

 以上述べたことでも、更に深く立入ると専攻学者でなくとも、単も釣る上に体形体色組織などに就いてまだまだ必要で面白いことはあるが、先づ一応打切りとして、更に魚から学ぶべきは、是等の機能を其へた魚が、事実何処に居るか、また如何なる時期又は理由で、その場所を何ういふ風に移動するか、そして幼魚成魚或は産卵斯に於て、体の一部又は殆んど全部の外形に変化を見ることもあるが、それが其日その折の微妙な所まで影響するもので、弗々やつて行く間に頭に入れるのであるが、本書でも旧著でも、それぞれの項目に何かしら気付くべきことは多少共分記してあるから、ここには之を略し、最後に一寸注意すべきとがある。

 欧米の釣魚に関する書籍には、先づ目標の魚の体形、組織の内容、魚の習性から 一年一生を通じての生活状態などの要項を概記し、その上に釣具釣餌釣り方の実際に就いて説明されてあるものが多い。 先づ初心の者でも豫備智識を得るには非常に便利で、誰でも一寸やれさうに出来てゐる。

 我邦でも近年是等の研究は進歩し、専門家でなくとも部分的には学者水産業者の参考に資する知識体験も随分あるもので、漁夫のする所にも進境は認められるのであるが、その記録殊に習性に開するものが関するものが汎く示されてゐない。

 単に吾々が趣味として楽む上にも、欧米の如き記録どころか右の状態にある為、多分それ位のものかと思ふことにも自信が付かない。その付かないことが、釣る上に少からざる障害となり、それだけ興味が減殺される。天狗連の貴い体験といふも聞いて見ると、頗る部分的な、しかも非科学的なものが多く、漁夫は経済から算出した漁法に走るだけに、吾々の楽む方面に凡てに就いて知る便宜ともならず、又発表されたものは、そこに物足りない所が多いといつた譯で、その又之を研究し且言現はすに頗る苦しい所もあるので、兎角初歩の人にも直にやれるやうに書いたものが少いことは実に遺憾な次第である。ここは各方面の指導研究者が一段奮発し殊に魚の習性に就いて多くの発表を望むのである。

釣の創作的境地

私としては澤山鮎を釣り得たよりも、新に意匠した鉤が予期の如く適中した場合は、実に無上の愉快を感ずるのであります。故に新に出來た鉤とか又は各系統による封照的試験は素より色合の濃淡について、終日其適否を研究することにのみ没頭してゐるから、自然鮎は釣りたくとも、つることが出来ないのであります(つり誌石崎肯岳氏)

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大正14(1925)年に書かれた戦前の釣り本『釣の呼吸』(上田尚著)を読むシリーズ。現在にも通じる釣りの楽しみ方から歴史、文化まで。今でも納得の内容で読み応え充分!


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