全国遊廓案内(昭和5) 青森縣

全国遊廓案内(昭和5) 青森縣
公開:2021/09/03 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『青森縣』に存在した遊廓を説明します。


青森縣の部

八戸遊廓

八戸遊廓は青森縣八戸町にあって、東北本線、尻の内から分岐する八戸線に乗替へ八戸駅で下車する八戸遊廓は隣接町の小中野町及び鮫の遊廓とを以て八戸遊廓と俗に言はれて居るのである。小中野町遊廓に行くには、八戸町の中央で自動車に乘るか(賃二十錢)汽車で「陸奥湊驛」に下車するか。「片道八銭」で湊駅から廓までは約五丁である。安政の頃大平洋沿岸を航行する小廻り船が小中野添ひの湊川港に碇泊した時、船夫達の衣類を洗濯したり、身の廻りの世話をしたりした洗濯女が、私娼と變り、それが濫觴となつて出來た遊廓である。

現在貸座敷數約三九軒、娼妓は約百六十人位居る、主に陰店制であり、客引番頭等居ないので非常に簡単である。御定り三圓三十錢酒肴或は茶菓附で客の意の儘である。遊興は全部廻し制で通し花は取らない。特有の情緒と言ふものもないが、特に無駄使ひせぬ様に勉めること、それが八戸女の真実味がある處だ。

縣社「三八城神社」があり丘上の眺望脚下に萬傾の水田を踏んで西北の空には遠く八甲田、十和田の諸峰及松が崎一帯の松林、之に續く洋洋たる青海を望む風光は絶佳である。鮫の遊廓は風光明媚の地として特に親しい情調がある。八戸地方の海上門戶として殷盛を極めた土地だ相である。小中野代表的妓樓は曙、輪島樓、花月楼等である。

三本木町遊廓

三本木町遊廓は青森縣三本木町新地にあつて、東北線古間木驛で十和田鐵道に乘換ヘ三本木驛で下車する。

貸座敷は現在三軒、娼妓約十七人位居り多くは近縣人で遊興は東京式廻し制である。店は陰店を張ってみる。御定りは三圓、二圓五十錢とあつて酒肴附である。藝妓も呼べる。玉代一時間一圓位、二時間以上は一時間八十銭の割、十和田湖へは西方へ約四単位である。

五戸町遊廓

五戸町遊廓は青森縣三戸郡五戸町にあつて、汽車では東北本線十和田鐵道に依るのが一番近い。即ち古間木驛で十和田鐵道に乗換へ、三本木驛へ下車すれば南方へ紛三里五丁の地點にあつて、馬車或は自動車の便がある。

東北線から十和田湖に行く人は此の五戸を通過せねばならぬ、五戸から戶來迄は三里二十八町十和田湖迄は戶來から三里半位である。現在貸座敷數は四軒、娼妓は約二十人位居て陰店を張つてある。御定り三圓五十錢位が単で、乙は二圓五十銭位である。娼妓は居稼ぎ制で、客の廻しは取っている。短時間なら一圓二十錢位でも遊べるらしい。山國情調が遺憾なく現われ出て居る。

野邊地遊廓

野邊地遊廓は青森縣上北郡野邊地町に在つて、東北本線野邊地驛で下車すれば北へ約三丁の地點に當つて居る。乗合自動車の便があつて、金澤山口屋前で下車すれば宜い。

此の町は陸奥湾に面した港町で、明治維新前迄は、南部藩唯一の港だつたので、町も繁華で此の方面の盛り場も非常な殷賑を極めたものであるが、明治四十三年に現在の個所へ移轉して遊廓と成つてからは、幾分淋れた感じがある。宿場として散在して居た當時には十二三軒あつたものが、現在では九軒に減って居る。娼妓は全部で三十八居るが、青森縣及秋田方面の女が多い。入江の波は静かで人々は純朴であるから、都會人の避暑地には宜い處である。茲の遊廓は大體が東京式で居稼ぎ制、勿論廻し制を採つて居る。店丈けは寫眞制を廢して陰店で客を呼んで居る。御定りは三圓二十錢で甲も乙も無い。従つて本部屋も無い譯である。御定りには御銚子一本に小物が附くけれども、其れ以上は別勘定に成る税は遊興費の一割。貸座敷に藝妓も呼べるが、一時間目は一圓で、二時間目からは八十錢宛の割である。
民謡「十府のすが蓆、織るなら廣く 主とふたりで すわるよに」
妓樓は、大萬樓、旭樓、惠比壽樓、満月樓、柏樓、大黒樓、霞月樓、來盛樓、いろは樓等である。

田名邊町遊廓

田名邊町遊廓は青森縣品名邊町にあつて東北線野邊地驛で大湊線に乘換へ、田名部驛で下車する。

現在遊廓貸座敷數約三軒、娼妓は十五人位居て、店は陰店制、遊興は東京式廻し制でもる。御定りは三圓、二圓とあつて、酒肴附である。娼妓は近縣人多く愛嬌と義俠で評判だと聞いて居る。右で一泊も可能だ。


大湊町遊廓

大湊町遊廓は青森縣下北郡大湊町にあつて、鐵道は東北線野邊地で乗換へ、大湊線に依つて、大湊驛へ下車する。大湊は海軍の要港で、下北半島の第一の色邑である。遊廓の貸座敷數約十軒、娼妓は約三十人位居る。店は陰店制であり、遊興は東京式廻し制である。御定りは酒肴附二圓五十錢、茶菓附なら二圓五十錢、二圓位でも遊興が出来る。短時間なら一圓位でも遊べるらしい。

七戸町遊廓

七戸町遊廓は青森縣七戸町にあつて、汽車は東北本線「野邊地」下車、南方へ約五里半、又十和田鐵道へ古間木から乘換へ三本木驛へ下車すれば北方約二里半位の地點にある。

現在妓樓約三軒、舞妓納十五人位居て、重に近縣人である。遊興は東京式廻し制である御定り三圓五十錢、本部屋酒肴附三圓及二圓五十錢とある。即ち最低は二圓五十錢と言ふ事になる。茶菓附なら一圓四五十錢位で一泊も出來る。

三戸遊廓

三戸遊廓は青森縣三戸郡三戸町字留崎にあつて、汽車は東北本線三戸驛へ下車し留崎町迄人力又は自動車の便がある。現在貸座敷數は三軒、娼妓約十八人位居て、陰店制であつて、遊興は時間制でなく、廻し制度になつて居る。御定りは本部屋酒肴附四圓、又三圓、二圓五十銭の等級がある。短時間遊びなら一圓位でも揚げるらしい。

青森市旭町遊廓

青森市旭町遊廓は青森縣青森市旭町に在って、東北線又は奥羽線青森驛で下車して南へ約十丁の個處に在る。

青森は本州最北の都會で開港場であり、北海道への聯絡船が出る。縣廳があり、兵營があり、善知鳥神社があり、金浦公園があり妙見堂がある。寛永以前には善知鳥と云ふ一魚村に過ぎなかつたが、藩主津軽信牧公が築港してからと云ふものは隆々として繁昌し、忽ちにして今日の大を成すに至つたものである。明治四十三年五月三日の青森大火に舊柳原遊廓も全滅したので、間も無く現在の地に移転して今日に至つたものである。目下貸座敷が二十一軒あつて娼妓は百四人居るが、何れも青森、秋田縣地方の女が多い。店は寫眞式と陰店式とを併用して居る。娼妓は全部居稼ぎ制である。客は廻し制で通し花は取らない。費用は六圓、五圓、四圓、三圓の四通りあって、何れも臺物が附いて居る。税は一割。本部屋は無い。青森の遊廓丈けでは、水中其他へは一切祝儀や心付けを與へる必要は無い。彼等は総て給料制度に成つて居るので、祝儀は絶対に受けない申合せをして居るのだ。貸座敷には、角海老、若松、開金、大金、大、政岡支店、富美代、金森、松明、第二松明、一六、喜樂、寶來、長谷川、青港、福太、政岡、水桝、第三一六、福島、松葉等がある。

里謡じょんから節「ハアー外ヶ濱なる青森港、北は松前樺太迄も、出船入船絶えまなく、ハアー海の青森繁華な青森、汽車は東北奥羽の出所、客の乗り降り東北一」藝妓の玉代は二時間一座敷二圓。

弘前市壽町(或は北横町)遊廓

弘前市壽町(或は北横町)遊廓は青森縣弘前市壽町にあつて、奥羽線弘前驛へ下車し代官町を北へ、和德町を抜けて右へ折れると北横町の遊廓へ出る。

此の遊廓は明治初年頃から明治二十年位迄は元寺町の鐵砲小路にあつて、銘酒屋の様な小見世が三四軒あったばかりであつたが、二十年頃から土淵川に沿ふた、土場町へ移轉し今の様な形を整へてからは、妓楼も十軒ばかりに増加した。同三十年には現在の地に移轉したもので、兵隊が置かれてから急速の発展をした遊廓である。

現在遊廓の貸座敷數は約二十四軒、娼妓約百二十人位居る。女は近縣人が多い。店は陰店制及寫眞制とあつて、遊びは東京式廻し制度になつて居る。妓娼は勿論居稼ぎ制だ。御定りは六圓が最高で會席菓子付である。甲は五圓、乙四圓、丙三圓三十錢と言ふ事になつて居る。「壽町」「此横町」と二個所にわかれ、壽町には三軒北横町には中見世、小見世合せて約二十軒位ある。各々氣分も多少は異って居るが此壽町の方は近來發展をして、美人も相當多いと云ふ評判だ。

附近には苹果園が多く林檎の名物、市の北には岩木山があつて津輕富士の稱がある。驛前を真直ぐ行けば古の鷹ヶ丘城址があつて、天守閣や物見櫓等が残存しているので、昔を偲ばせるには充分である。岩木山神社(國幣小社)は市から西へ三里半、樓門、神樂殿、惣黒塗鍍金の金具を打つた中門、總朱塗の拜殿、唐門等は燦然として、俗に奥日光の稱がある。津輕氏の継営に係るもので多くは特別保護建造物となつて居る。代表的な妓樓としては壽町では「武蔵樓」、北横町では「あけぼの」が有名だ。


黒石町遊廓

黒石町遊廓は青森縣南津輕郡黒石町にあて奥羽線川部驛で、黒石線に乘換へ、黑石驛で下車する。

現在遊樓數約三軒、娼妓約十五人位居る。青森及秋田縣人が多い。遊興は廻し制だ。御定り甲は四圓で本部屋、會席及玉代一切に酒肴附である。又三圓二圓位の等級もある。

深浦遊廓

深浦遊廓は青森縣西津軽郡深浦町に在って、目下鐵道の架設中であるから、奥羽本線川部驛で五所川原線に乗換へ、終點の滲澤驛へ下車し、南方へ約五里の地點にある。

遊廓の貸座敷數約三軒、舞妓約十五六人居り青森秋田縣の女が多い。茲の娼妓は比較的侠心に富んで居る相だ。遊興は東京式廻し制であるが、せせつこましい處がない。御定りは三圓と二圓とあつて、一泊酒肴附である。

鯵ヶ澤町遊廓

鯵ヶ澤町遊廓は青森縣西津軽郡鰺ヶ澤町字新地に在つて、五所ヶ原鯵ヶ澤驛から西へ約十五丁、乗合自動車の便がある。

鯵ヶ澤は津軽藩發祥の地で、舊藩時代には津輕唯一の商港だつた。従つて遊廓も三百年の古い歴史を持つて居る。現に妓樓として三百年以上を経過して、今尚営業を続けて居る中村樓主は、十二代の直系である。目下貸座敷は六軒あって、娼妓は三十五人居る。店は陰店を張って居て、遊興は廻し制、費用は御定り甲四圓、乙三圓、丙二圓五十錢で臺の物が附く、娼妓は青森縣、秋田縣の女が多い。本部屋は無い。妓樓は、中村樓、長親樓、一二三樓、西港樓、丸海老樓、高砂樓等がある。

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全国遊廓案内(昭和5) はじめに
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昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

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全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
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昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、遊廓に関連している言葉の意味を説明しています。(遊廓言葉辞典)


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