全国遊廓案内(昭和5) 山形縣

全国遊廓案内(昭和5) 山形縣
公開:2021/09/03 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『山形縣』に存在した遊廓を説明します。


山形縣の部

米澤市福田遊廓

米澤市福田遊廓は山形縣米澤市相生町に在って、奥羽本線米澤驛で下車すれば西へ約六丁の位置に在る。

舊上杉氏の城下で公園には鷹山公を祭った上杉神社がある。鷹山公が蠶糸業を奨励し出して以來、米澤織の産地として天下に其の名の届かぬ處は無い。従つて織物の好況不況は直ちに遊廓にも影響する處と見て差閊は無からう。宿場から現在の遊廓に移轉したのは、明治十九年の五月で、當時は僅々五軒の同業者に過ぎなかつたが、其の後漸次に增加して大正六年五月廿二日の大火災當時には既に十一軒に成つて居た。其後復興して現在營業を続けて居る家は八軒あつて、娼妓は約三十五人居る。殆んど同縣下の女と少數の福島縣の女とである。店は寫眞制で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。客の好みに依って時間制もやれば廻し制もやつて居る。御定りは本部屋で遊べば三圓に稅が十四錢、廻し部屋で遊べば二圓で税が十四錢で一泊が出來る譚である。此の御定りには簡單な酒肴が附く事に成つて居る。妓樓は丸喜機、甘水樓、新芳樓、昌平樓、朝日樓、武蔵樓、住の江樓、東陽樓等がある。

小松町遊廓

小松町遊廓は山形縣小松町に在つて、米坂線小松驛で下車する。

小松町附近一帯が養蠶地であり、且つ機業地で人口約一萬の繁華地である。貸座敷は四五軒あつて、娼妓も十五六人居る。店は寫眞店で、居稼制、遊興は廻し制で、本部屋は無い。費用は御定り一圓八十錢で臺の物が附く。此れで一泊も可能だ。

高畠町

高畠町は山形縣東置賜郡高畠町に在つて、高畠鐵道高島驛で下車すれば南へ約三丁の地點である。

此處は昔乍らの宿場に成って居て、民下貸座敷は「惠比壽樓」と「椿樓」の二軒しか無いが、家は落着いた古風な建物だ。娼妓は全部で八人居るが全部本縣下の女である。店は陰店を張つて居て、娼妓は居稼ぎ制だ。勿論客の廻しは取るが通し花はやらない。費用は甲が本部屋で酒肴四品附きが三圓五十錢、乙は廻し部屋酒肴四品附きが二圓五十錢、丙は廻し部屋で御茶菓附きが二圓、税も含んで居るから此で一泊が出来る勘定だ。妓樓は恵比壽樓と椿樓。

赤湯遊廓

赤湯遊廓は山形縣東置賜郡赤湯町にあつて、鐵道は東北線赤湯驛で下車する。長井線の分岐點に當っていて、町は温泉地である爲め相當活気のある町であり、湯治客の出入る相當多い様である。

遊廓の妓樓數約三軒、娼妓約十三人居り、御定りは三圓と二圓とあつて、遊興は廻し制である。本部屋は一圓増だ。勿論酒肴が付く。割合にのんびりして遊べる處だ。娼妓は主に同縣人の女が多い。附処の名勝として烏帽子山と白龍湖であらふ。丘上には縣社の八幡神社があり、傍らに縣下第一の櫻の名勝偕楽園がある。白龍湖は古の置賜太湖の遺物で、中には浮島があつて、鮒、鯉、海老等が採れ、赤湯の寶湖である。湖畔には辨財天がある。

宮内遊廓

宮内遊廓は山形縣東置賜郡宮內町にあつて、鐵道は東北線赤湯驛で長井線に乗換へ宮内町で下車する。

養蠶地として昔から知られて居るので製糸工場が多い。遊廓の貸座敷數は約三軒、娼妓は約十二人居る。御定りは三圓、二圓とあつて、酒肴附一泊可能。本部屋は無い。遊興は東京式廻し制、店は寫眞制で重に土着の人を相手にして居る。町の後に今變松公園があつて、相當大規模な公園だ。風景のよい公園であつて、熊野神社がある。

長井町遊廓

長井町遊廓は山形縣西置賜郡長井町字東町に在つて、長井線長井驛で下車すれば東南へ約五丁の處である。

此處も米流織の産地で、と云ふよりも、荒砥よりは此處の方が量に於て本場かも知れない。松池公園は白つつじの名所で、土地には「長井の名所は松ヶ池公園で、土手は一面白つつじ、遥に見ゆるは東町の不夜城よ、前を流るる其の川は、日本で名高き最上川」と云ふどんどん節がある。此蔵から北へかけて最上川の渓谷に成つて居る。明治十年頃には宿場の貸座敷が二戸あつたのみだつたが、大正七年に遊廓と成つて移転し、現在では同業者が五軒に殖えて居る。婚妓は全部で二十人居るが殆んど本縣下の女である。店は寫眞式で、居稼ぎ制である。廻し制で、通し花はとらない。費用は甲三圓、乙二圓十五錢、本部屋は一圓増し、此れで各一泊が出來て臺の物が附いて來る。娼樓には、新松川、萬景樓、古川樓、松川樓、第二竹本等がある。


左澤遊廓

左澤遊廓は山形縣東置賜郡左澤町にあつて、鐵道に依る時は奥羽線赤湯驛で長井線に乘換へ、左澤驛で下車する。

現在遊廓の貸座敷數は約四軒、娼妓は約十四五人居て、全部本縣の女。成は寫眞制もあり陰店制もある。御定まりは二圓五十錢で一泊が出来、酒肴付である。本部屋は無い。当地は機業地帯なので、花街は相当に繁昌して居る。

荒町遊廓

荒町遊廓は山形縣西置賜郡荒砥町字吾妻町に在つて、長井線荒砥驛で下車すれば東へ約四丁、タクシーは市內五十錢均一である。

此處は養蠶の盛んな處で、米澤織の産地である。遊廓には目下貸座敷は二軒しか無いが堂々たる構への料理店は澤山あつて、花柳界は可成殷盛である。娼妓は六人居るが皆本縣下の女で比較的粒が揃つて居る。店は寫眞式に成って居て陰店は張つて無い。娼妓は週し制で、藝娼妓共に居稼ぎ制である。費用は甲が藝妓一人附いて五圓、乙は藝妓無しで二圓六十錢、丙も藝妓無しで二圓十錢だ。此れで各臺の物が附く上に、午後六時から登樓して翌朝の六時迄居ても差支ヘ無い事に成つて居る。娼樓は(丸高)高山彌次郎(丸金)山口ゐいの二軒である。附近には最上川鐵橋、八乙女八幡、種蒔櫻等がある。

上山町遊廓

上山町遊廓は山形縣南村山郡上山町字新町にあつて、鐵道に依る時は、奥羽線上山驛で下車、北方約十丁位の個處にあつて、町の中北を通って居る國道に沿ふて北方約七八丁位行き、四つ谷街道に入り約一丁位の處にある。

溫泉町であるので早くより各地人から廣く知られ、又上山は松本氏の城下であつた爲めに相當繁昌を極めた慮であるが、遊廓は最初國道筋にあつたものが明治三十年頃現在の新町に集合して廓となつたもので、目下は樓数四軒、娼妓約二十人位居り湯治客及近在の者等の為め相當繁昌を極めて居る。娼妓は重に送り込制でなく全部居稼ぎ制で、時間制もあれば廻し制もある。歴は元は陰店制であつたが、目下では全部寫眞制となつて居る。御定りは遊興税共甲二圓五十錢、乙は一圓八十錢位で、本部屋は普通一圓六十錢増である。即ち本部屋遊び一切含み四圓十錢で時間遊び最低一圓二十錢、新湯が町の中に湧出して、一般の避山傍々の湯治客の爲め非常な人気を呼んで居るので、藝妓も相當に多く遊廓に藝妓を呼ぶ事も出來る。藝妓は玉代一時間一圓三十錢位である。

特殊の情緒は毎年の例として盆には盆踊が遊廓の中で催され。多くの客と入乱れて、踊り狂るのが見物である。附近の名勝、四方山に圍れ一盆地をなして居るので、四季の變化にともなつて、極めて美しい景色が織られる、最近スキー場も出來、冬の運動地として多くの人々が出入をする様である。不動の瀧、國藏山、三吉山、岩観音等の名勝があり、月岡城址は今公園となつて町を眼下に瞰敢し、非常に眺望の美い所である。町の端には「春雨庵」と言ふ澤庵禅師の遺跡があるので有名だ。妓樓は新吉樓、新吉樓支店、舞鶴樓、柏木樓、瀧本樓等である。

山形市遊廓

山形市遊廓は山形縣山形市小姓町に在つて、奥羽線山形驛で下車すれば東方へ約六丁北山形驛で下車すれは東方へ約十二丁の地點である。何れの驛からも乗合自動車の便があつて、遊廓入口停留場迄の賃金は十錢である。

當市には縣廳あり、族團あり、高等學校もあつて縣下第一の都会である。漆器、のし梅の産地として有名だ。此處から西北へ約三里程の地點には、有名な奇勝山寺があつて自動車の便がある。宿場から遊廓に改まったのは明治十七年であるが、明治二十七年の大火には一軒残らず類焼して終った。だが忽ちにして復興し、素晴らしい大廈高樓が軒を連らねて一大遊廓が建設せられて現在に至ったものである。數年前迄は二十二軒あつたのであるが、財界不況のあほりを食って大店が三軒共討死をしたのは一寸淋しいが、其れでも未だ十九軒殘って居て、盛んに気勢を揚げて居る。娼妓は全部で百九十一人居て、一部秋田縣人の他は全部山形縣の女性である。店は寫眞制で陰店は張つて無い。娼妓は居稼ぎで送り込みはやらない。本部屋も廻し部屋もあつて、廻しを取って居る。費用は甲五圓、乙三圓五十錢、丙二圓五十錢で各酒肴が附く事に成つて居る。本部屋に入るには甲が一圓五十錢増し、乙が一圓二十錢増し、丙は一圓増しと云ふ事に成つて居る。勿論此れで一泊が出来るのだ。妓樓は、新よし樓、青柳樓、丸龜樓、新青柳樓、龜よし樓、品川樓、一力機、花よし樓、萬龜樓、奥田樓、松井樓、吉野樓、金萬樓、日の出樓、花村支店、大金樓、花村樓、中条樓等である。

寒河江町

寒河江町は山形縣西村山郡寒河江町字上西小路に在つて、左澤線寒河江驛から北へ約五丁の個處である。

宿場で元は貸座敷が三軒あつたのであるが、大正八年以來は「庄内家」がたつた一軒に成って終った。娼妓は六人居るが全部山形縣の女である。店は寫眞式で陰店は張つて無い。廻し制で通し花は取らない。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。費用は御定り酒肴附が三圓二十銭で、茶菓附きが二圓八十錢だ。本部屋は二十錢増しである。勿論此れで宵から一泊が出來るのだ。附近には最上川、八幡公園、長岡山、慈恩寺等がある。藝妓の玉代が一時間一圓。

谷地町遊廓

谷地町遊廓は山形縣西村山郡谷地町に在て、奥羽線、神町驛で下車すれば西へ約二十丁の地點に在る。神町県から谷地行きの軌道を利用すれば約十五分か二十分位で行ける。

此處の貸座敷は今だに宿場的に散在して居て、他の様に遊廓とは成って居ない。現在貸座敷は四軒あつて、娼妓は二十五人居る。店は寫眞式で陰店は張って居ない。娼妓は居線ぎ制で送り込みはやらない。遊興は全部廻し制であるが、本部屋と云ふ特殊な設備は無い費用は甲が三圓五十錢、乙が三圓、丙が二圓で税が約百分の十四取られる。甲には御銚子が附き、乙と丙には茶菓が附いて一泊が出来る仕組みに成って居る。妓樓は壽樓、養花樓、若竹樓、千歳樓等である。

楯岡町

楯岡町は山形縣北村山郡楯岡町に在って奥羽線楯岡驛で下車して北へ約十丁の個處にある。

楯岡は人口約一萬の繁華地で、舊幕時代に蝦夷、樺太等を探檢した最上德內と云ふ人の出生地で、近藤重蔵、間宮林蔵等の先鞭者であつた。貸座敷は五軒あるが昔乍らの宿場に成つて居て奮幕時代の飯盛女気分が微かに残って居る。店は寫眞式に成つて居て、陰店は張つて無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。廻し制で通し花は取らない。費用は本部屋が三圓三十錢で酒肴附、廻し部屋は二圓三十銭で茶菓附、何れも宵から一泊が出來る事に成つて居る。妓樓は新島樓、但馬樓、岩城樓、東樓、平樓の五軒で、娼妓は全部で十五人居るが、殆んど山形縣の女計りだ。藝妓の玉代は一時間一圓である。附近には東根温泉がある。約二里。


新庄遊廓

新庄遊廓は山形縣最上郡新庄町宇萬場町に在つて、萬場町遊廓とも云つてゐる。奥羽線新庄驛で下車して北へ約十二丁の處にある。乘合自動車の便があるから、萬場町停留場で下車すれば宜しい。

名は遊廓と云ふ事には成つて居るが、事實上に於ては未だ國道に沿ふた宿場に成つて居る。遠からず完全な遊廓と成る事だらう。新庄は奥羽線と小牛田線との交叉點で、奥羽地方に於ける交通の要路である。人口約三萬、市政の施かれるのも必らず近い將來に在る事だらう。貸座敷は現在七軒あつて、娼妓は全部で二十八人居る。店は全部寫眞式で店は張つて居ない。勿論送り込み制では無い。大阪式の時間制でも無いので廻しは取つて居る。御定りは甲(ビール一本附)三圓、乙(御銚子一本附)二圓五十錢、丙(茶菓附)二圓、外に各十三錢宛の税が附く。甲と乙には勿論肴及小物が附く事に成って居る。本部屋に入るには各一圓増しである。藝妓も呼べるが、玉代は一時間一圓三十五錢宛である。本場丈けに「おばこ節」も盛んであるが、里謡に新庄節と云ふのがある。
「花の萬場町上れば下る。鐵のわらじもたまりやせぬ」
「さばね山越え舟形越えて、逢ひに来たぞや萬場町に」
妓樓は福壽樓、千年樓、常盤樓、立花樓、伊勢屋、松川樓、恵比良樓の七軒だ。

酒田町遊廓

酒田町遊廓は山形縣飽海郡酒田町字新町に在って、羽越線酒田町字新町に在って羽越線酒田驛で下車すれば西へ数丁、乗合自動車は新町で下車する。
酒田港は和船萬能時代には有名な港だつた。庄内平野は勿論、遠くは米澤置賜方面の產物を最上川の水運に依つて一手に引受けて、一大荷物の集散地であつた。今は茲が起點と成って鐵道が四方に敷かれたので昔程では無く成ったが、依然として交通上の要路である事を失はない。有名な大地主本間氏の根據地で、別邸の庭園等は可成豪荘を極めたものである。(本間様には及びも無いが、せめて成り度や殿様に)と云ふ里謡がある程だ。遊廓も昔から殷賑して、今町、船場町、高野濱の三ケ所に在つたものであるが、明治二十七年の大震災後に三ヶ所全部合併して今日に至つたものである。

現在貸座敷が三十一軒あつて娼妓は約百人居るが、秋田縣及山形縣の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制である。客は廻し制で通し花はとらない。費用は御定り(一泊)が三圓五十錢で、臺の物が附く事に成つて居る。最低二圓八十錢でも遊べる仕組もある。娼樓は小川屋、門真樓、福田樓、常盤家、藤美屋、綠屋、越後谷、群芳樓、櫻屋、吾妻家、松村屋、本五樓、柿崎屋、吉田屋、出島屋、西村屋、明園樓、藤屋、下總屋、喜樂亭、海望樓、翠峰樓、松山屋、北海樓、一笑亭、美咲屋、宮崎樓、眞田屋、五十嵐屋、清月、高砂屋等である。おばこ節の本場
「おばこ何處さ行かしやんす、こん紺の前掛なんどちよいと締込んで」コバエチヤチヤ
「おばこ來るかやと田圃の端れまで出て見たば」コバエチヤチヤ
「おばこきもせで甲の無い煙草賣、なんどふれて來る」コバエチヤチヤ

湯溫海村溫海遊廓

湯溫海村溫海遊廓は山形縣西田川郡湯溫海村字溫海にあつて、鐵道は羽越本線溫海驛で下車し、東へ約二十丁位の所にある。乘合自動車の便があつて、片道料金二十錢位である。

非常に不便な地理的関係で、あまり世間に知られて居なかつたが、羽越線が開通する樣になつてから急に知れ渡つて來た處である。溫泉場だから保養がてらの遊山には絶好適地、族館は一泊二圓五十錢以上位である。妓樓の軒數は約三軒娼妓は、約二十人位居て全部居稼ぎ制である。店は陰店制で、東京式時間制及廻し制が普通である。御定りは三圓十五錢也で普通酒一本及肴三品付である。又一泊の遊びは最低三圓二十錢位からは客の意の儘である。一時間は一圓八十五錢(御茶代共)であるが、時間を途中から増す場合は、同一時間約一圓の計算となるのである。藝妓の玉代は一時間一本とし遊稅共一圓四十錢位である。特風は遊廓兼藝妓屋なので藝妓を呼ぶにも手軽な事だ。

溫海民謡
「御されざれ、と言はるるままに、溫海來て見れや月が出る」
「溫海溫海と自動車はしる、二十三軒軒別へ」
附近の名勝は溫海獄、大清水、湯見ヶ瀧、平島海、水漁場、暮坪立岩、大島、日本百景の笹川流、スキー場等である。妓樓は竹岡樓、角恵比樓、福本樓の三軒である。

大山遊廓

大山遊廓は山形縣西田川郡大山町にあつて、大郷山の川に沿ふた地點にある。鐵道に依る時は羽越線加茂驛で下車し、東方の里道に沿て約三里位の處である。自動車の便もあるので之を利用する方が得策だ。

現在遊廓妓楼約三軒、娼妓約十五人位居て東京式廻し制で、遊興費は二圓位より最高五圓見営と思へば間違ひない。本部屋は無い。

松嶺町新町遊廓

松嶺町新町遊廓は山形縣飽海郡松嶺町字新町にあつて、鐵道は陸羽西線の砂越驛で下車して東方へ約二十七町位の處にある。驛から乗合自動車の便があつて、後藤自動車部に申込めば直ちに直行する。賃金約四十銭である。

四五年前迄は二三軒あつたのであるが、不景気の爲めに休業して、目下は唯一軒「藤本家」があるのみだ。娼妓約五人で全部居稼ぎ制である。店は陰店制で、通し花制ではなく、又時間制でもない。東京式の過し制である。御定りは本部屋廻し部屋の區別なく、酒肴附は二圓八十錢で、菓子と御茶附なら二圓四十錢、尚何にも附かずなら一圓八十錢である。二枚鑑札は居ない。附近の名勝は總光寺、松嶺町公園、三十三間堂等あつて相當名有である。

民謡「御出くなんせ我が松嶺へ、花も實もあり心もある」

湯田川溫泉遊廓

湯田川溫泉遊廓は山形縣西田川郡湯田川溫泉場に在って、奥羽西線鶴岡驛から西南へ約二里、驛から乘合自動車の便があつて、往復の賃銀が五十錢である。

散娼制から集娼制に成ったのは、明治四十二年の大火災以後の事である。溫泉場ではあるが、湯治客は重に近郷の人々が多いので、土地の人々は総體に純朴である。貸座敷は目下五軒あつて娼妓は三十五人居り、全部本縣下の女計りである。陰店は張つて居ない。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。客の廻しは取つて居る。費用は御定りが三圓九十銭で、乙が二圓九十錢である。此れには臺の物の代金も含んで居るのだ。娼樓には櫻花樓、場照樓、新清樓、幸至樓、藤澤樓等がある。附近には金峰神社、遊行上人の墓等がある。土地ではおばこ節が盛んだ。


湯の濱遊廓

湯の濱遊廓は山形縣西田川郡加茂町字湯の濱にあつて「羽前大山」驛の北約一里三十町位の地點にあつて、乗合自動車は五十錢、馬車なら四十錢位で行く。

日本海の波打際に臨み、海水浴場を兼ねた好溫泉場なので夏は相當に人々が入り込む。町の中央に遊廓があるので、白晝も尚絃歌が絶へないと云ふ乙な處だ。近在の若者が遊廓をのぞきに來るが張店もなく、寫眞もなく、勝手に妓樓に登つて室をのぞいて歩く、交渉は凡て直接談判である。又茲で一つの面白い事は、履物をかくされる恐があるので、若者は各々自分の履物を腰にぶらさげて行くと云ふ、誠に風變な點が獨特の情調であるらしい御定りは娼妓玉代一圓八十錢、一泊二圓位から五圓位迄で充分だと云ふ事だ。

加茂町遊廓

加茂町遊廓は山形縣西田川郡加茂町にあつて、鐵道は羽越線加茂驛で下車する。

昔から小さな魚港であつたが、羽越線が開通してからは急に町に活気を呈して來た。現在遊廓の貸座敷數は三軒、娼妓約十五人居り、遊廓は東京式廻し制度になつて居るが、新開地らしくない。のんびりした気分のある處だ。御定りは最低二圓位から三四圓見當であとは客の意の儘である。本部屋の設備は無い。裏日本の林しい氣分は如何としても打消し難いが、又其處に云い知れぬなつかし味がある。土地の人柄もこまやかだ。

鶴岡遊廓

鶴岡遊廓は山形縣東田川郡鶴岡市にあつて、鐵道ならば羽越線鶴岡驛で下車する。

從來迄此の町には鐵道がなく、大島川を利用して通交して居たのであるが、最近羽越線が敷かれてから著しく発展した町である。目下遊廓の貸座敷數は六軒娼妓約三十人位居る店は陰店制及寫眞制の両様である。御定りは一泊酒肴付二圓五十錢位より五六圓見当で全部東京式廻し制である。本部屋は四圓から。

尾花澤遊廓

尾花澤遊廓は山形縣北村山郡尾花澤町にあつて、雪の名所地である。附近は積雪一丈位になる事はさして珍しくないさうである。鐵道に依る時は奥羽線、大石田驛で尾花澤線に乘換へ、尾花澤驛で下車する。

現在妓樓は二縣娼妓は約五六人位居り、重に本縣人多く東京式廻し制度で、遊興費は一泊で一圓五十錢、二圓、三圓、四圓位の等級に分れ、等級に応じて酒肴が付く事になつて居る。本部屋は無い。

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全国遊廓案内(昭和5) はじめに
全国遊廓案内(昭和5) はじめに

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

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全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、遊廓に関連している言葉の意味を説明しています。(遊廓言葉辞典)


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