このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『京都府』に存在した遊廓を説明します。
京都島原遊廓は京都市下京區西新屋敷に在つて、山陰線丹羽口驛へ下車して東北へ約一丁の處に在る。市内電車は「島原口停留場」で下車すれば宜しい。市電の料金は六錢均一である。
京都の名所や舊跡は餘りに有名であり、且つ周知の事實なので、茲にくだくだと云ふ事を避けやう、只桓武帝以來明治迄の千百餘年間は此處が皇居であり且都であつたと云ふ事丈けに止めて置かう。西本願寺、東本願寺、三十三間堂、御所、金閣寺、銀閣寺、博物館、知恩院、清水寺、桃山、嵐山等数へるに暇無い程である。
此の遊廓は東京の吉原、長崎の丸山と共に日本の三遊廓の一と云はれて居た處で、「京の女郎に長崎衣裳、江戸の意氣地にはればれと、大阪の揚屋で遊び度い。なんと通ではないかいな」と云ふ歌が昔からある程だ。
島原の沿革史抜華を見ると應永四年足利義満公時代に、今の東洞院七條下ル處に傾城町を免許されたのが本邦遊廓の濫觴だとある。して見ると江戸芦原の遊廓よりは、京都の方が遙かに古い事に成るのであるが、其の真意の程は判らない。天正十七年押小路附近に移転して萬里小路廓と呼んだ事もあり、慶長七年更に六條に移轉の命降り此處を三筋町と云つて居た事もある。寛永十八年には三度現在の敷地に移轉して島原と呼ぶ様に成つたものである。嘉永七年に失火して、僅か揚屋町のみを残して全焼した。類焼した人は一時祇園に避難して假営業をして居た事もあつた。吉野、小紫、大橋等の名妓は皆此處から生れたのだ。昔は毎月一回宛太夫道中が行はれたものであるが、今は毎年一回四月廿一日にしか行なはれない事に成った。口絵にある寫眞は即ち其れである。花魁には三種あつて、最高が太夫、次は伯人、最下は娼妓と云ふ事に成つて居る。
貸座敷は目下百四十八軒あつて、花魁は四百三十四人居る。近縣の女が多い。店は大概陰店を張って居て、太夫及伯人は揚屋へ送り込み制で、娼妓丈けは居稼ぎ制を採って屋る。太夫が揚屋へ送り込まれる時には、太夫の名を赤漆で書いた黒塗りの長持ちを男衆がかつぎ込む。中には夜具から、枕箱、煙管、煙草盆に至る迄の一切の、調度が入れてあるのだ。遊興は時間制で通し花制である。勿論廻しは取らない。費用は居稼ぎの娼妓を揚げれば一時間遊びが一圓五十錢から色々あるが、太夫を揚屋へ呼んで要領を得るには最低拾圓はかかる。一泊して翌朝「御座敷拝見」でもして素晴らしい舊幕時代の豪奢な跡を見やうとするには先づ三十圓は掛ると思はねばならない。
代表的揚屋は角屋、松本樓、輪違屋等であるが、花形樓、第二尾崎樓、等實に堂々たる家がある。
島原廓謠廓の花「古を今に忍ぶの面影は、松の位の名に高き、しき島原の太夫職、花の姿のうちかけは、他所に見ぬぞへ廓の花」
京都祇園遊廓は京都市祇園町に在つて、東海道本線京都驛で下車、東北へ約二十五丁、市内電車は祇園で下車する。
祇園感神院の勸請されたのは貞観十一年、今から約一千六十年前で當時の腰掛茶屋の茶波女は、實に祇園新地の濫觴であつた。享保十七年には茶屋渡世の公許が下り、寛政二年(今から約百三十年前)には遊女町の許可があつて、完全に遊廓と成り、更らに明治十八年には甲の部乙の部とに分離して今日に至つたものである。甲乙共に藝妓は娼妓より多い。
現在藝娼妓置屋は百卅軒、揚屋は約百軒、藝妓は二百人、娼妓は三十人居る。近縣、及九州地方の女が多い。藝娼妓共に送り込み花制で、居稼ぎをやる事はめつたに無い。遊興は全部時間制で、廻しは絶對に取らない。費用は一時間遊びが二圓で、二時間目からは一時間目毎に一圓宛を加算して行つて、一晝夜と成れば十四圓五十錢に割引される。但し臺の物は別である。
附近には、祇園清水、智恩院、東山等がある。
京都宮川町遊廓は京都市宮川町に在つて、東海道線京都驛から東北へ約二十丁、加茂川の東岸、四條大橋と五條大橋との中間に當つて居る。市電は「河原町五條」又は「四條大橋」で下車する。
賃六錢、乗合自動車は十二錢。宮川町は元賀茂川の河原であつたが、開らけるに従って、元十禪師社の西門があつた處から、建仁寺新地と云つた事がある。又建仁寺の領地だった為いもあらふ。遊廓は今から約百八十年程前、寛延四年に所司代松平豊後守、町奉行稲垣能登守、等が初めて本屋渡世を許した事に初まつて、明和七年には祗園町と共に茶屋遊女屋株を免許されたもので京都の遊廓としては可成古い歴史を持つてゐる。江戸德川時代には、男娼が非常に流行して吉原にも幾人かの「かげま」が居た事がある樣に、茲にも又幾軒かの「かげま茶屋」の在つた事は有名な事實だ。目下貸座敷は百五十一軒あつて、娼妓は三百三十人居る。九州地方の女が多い。店は陰店で、娼妓は殆んど、藝妓と同樣送り込み制である。遊興は仕切花制、又は通し花制で、廻しは取らない。費用は朝から晝迄三圓、晝から暮迄三圓五十錢、暮から十二時迄四圓五十錢、十二時から朝迄は三圓五十錢、一晝夜は十四圓五十錢、外人は右の全部倍額と云ふ規定に成って居る。臺の物は別だ。
揚屋は二丁目では
富士友、小谷、石原、菊屋、福井、菅谷、小林、森里、上榊、龜家。井上、湯浅、河内家、彌生、
四丁目では、
村上、三米、吉岡、紅春、花園、松竹樓、和之家、中市原、筆之家、三つ星、中よし、今西、朝山、大君、大喜、石初、大力、藤田、宮部、旭樓、八代、高橋、三木末、上花、富士家、
五丁目では、
丸ミキ、磯崎、前田、下富士家、
七丁目では、
吉花、上福種、清富、新谷、後谷、下藤本、岸の屋、島仲
等がある。
伏見撞木遊廓は京都府伏見市撞木町にあつて、鐵道は關西線伏見桃山瞬で下車すれば北方へ約十町位の處にあつて、驛から更に電車に依って行く場合には京阪電車或は奈良電車何れに依つても好い。京阪電車又は奈良電車に依る場合は墨染停留場で下車し、又京都市電は伏見線笛口で下車する。
撞木駅遊廓の沿革は最も古く、豊太閣の全盛時代が濫觴で、花街は非常に殷賑を極めたものであったが、後徳川幕府時代となつて、慶長十五年に初めて幕府から公許を得て遊廓が出來たのであつた。實に此の撞木町遊廓が花街公許の嚆矢だと言ひ傳へられて居る。以後元禄年間と成つて赤穂浪士として有名な、大石良雄の仇討は此處を本居として種々の謀議を廻したと言はれて居り又遺蹟もある相である。
総軒數二十軒娼妓約七十人位居て、全部居稼制である。店は寫眞制が普通で全部大阪式の時間遊びである。御定りは一時間一圓五十錢位で外遊興税は約十二錢位其の他一切含みで一圓七十銭で一時間遊べる。時間が永くなる時は、段々安くなつて行く割合になって居る。
附近の名勝の桃山御所、桃山明治天皇の御陵及乃木神社等がある。
妓樓は本家都樓、第二都樓、第三都樓、第四都樓、第五都樓、本家栄昇樓、第三栄昇樓、松月、柳月、大米、一力樓、小野樓、末廣、西富樓、澤田樓、松榮樓、阪井樓、外二戸。
伏見中書島遊廓は京都府下伏見町中書島に在つて、京阪電鐵中書島驛へ下車する。
貸座敷は現在八十四軒あつて、娼妓は約四百人居る。店は寫真店で、陰店は殆んど張って無い。娼妓は少數の送り込み花制が居るのみで、他は殆んど居稼ぎ制である。遊興は時間制、又は仕切花制で、廻しは一切取らない。費用は一時間遊びが二圓位で、半夜は四圓、夜は六七圓見当で臺の物は附かない。税は消費額の約一割二分。
八幡町遊廓は京都府綴喜郡八幡町字橋本に在つて、京阪電鐵橋本驛以西が全部遊廓の許可地に成つて居る。明治十年の創立で、歌舞伎で有名な「引窓」の「橋本の里」が今遊廓の在る所だ。淀川、桂川、宇治川の三川の合流に沿って居るので、風景もよく、夏は涼しく、多數の網船が出漁して、夜間の不夜城、川岸に絃歌のさんざめく邊りは實に別世界の感じがある。恰度京、阪の中間に位置して居るので、斯うした情景を慕ひ寄つて來る者が多いので花街はめきめきと繁昌し、今では貸座敷の組合員が七十五人居り、娼妓は四百七十人、藝妓は三十名と云ふ大舞臺に成って居る。女は主に中國、四國、九州方向が多い。店は陰店式で、娼妓は居稼ぎもやれば、又送り込みもやつて居る。遊興は勿論時間花制又は通し花制で廻しは絶対に取らない。費用は一時間遊びが一圓で、引過ぎからの一泊は五六圓だ。臺の物は叩かない。藝妓の玉代は一時間が一圓五十銭で、二時目からは一圓宛である。
附近には石清水八幡宮、淀競馬場、柳谷観世音、關西漕艇クラブコース、等があり、松茸、川魚等が名物だ。
主なる妓樓は第二中川樓、第一勝山樓、第一成駒樓、辻本樓、第一友榮樓、藤井樓、森田樓、辻よし、大金樓等である。
福知山遊廓は京都府福知山町に在つて、山陰線福知山驛で下車すれば北東へ約十二丁の處に在る。乗合自動車の便があるから猪崎で下車すれば宜しい。
福知山は山陰線と福知山線との接続點で、丹羽第一の都會である。元朽木氏の城下であつて、音無川から由良港迄船揖の便もある。酒呑童子で有名な大江山も此の川の下流にあるのだ。茲の遊廓は素晴しい發展振りで、現在茶屋揚屋(又は貸座敷の事で、料理屋に非ず)が七十八軒あつて娼妓が百六十人、藝妓が百人も居ると云ふ盛況である。店は陰店式で寫眞は出て居ない。時間制だから廻しは絶對に取らない。娼妓の揚げ方は總て屋方から揚屋の方へ送り込み制に成つて居る。本部屋廻し部屋の區別も無い。一時間の揚代が一圓廿五錢で税が百分の七席料は一切取らない。一泊が五六圓見当である。
茲には福知山踊りと云ふのがある。
「福知山さん長田野野出て、駒を速めて龜山へ」
「盆の御月さんはまん丸こて、丸て丸まんまるこてまだ丸い」
主なる妓樓は玉水、大友、辻絹、春家、昭和、松尾、丸八、萩野等である。
宮津遊廓は京都府與謝郡宮津町字新濱に在って、舞鶴宮津線宮津驛で下車すれば北へ約五丁の地點に在る。
宮津町は舞鶴湾に面した港町で、昔から遊廓の發展して居た土地であつた。即ち安政元年には既に当時の國主から許可を得て今の新濱町に遊廓を形成して居たものであつた。然し慶應二年には此の新濱遊廓が萬年遊廓へ合併を命ぜられて、萬年新地へ移轉したものであつたが、明治十一年には再び新濱遊廓が許可せられ、萬年新地は全廃を命ぜられ全部新濱へ移轉して今日に至ったものである。
現在貸座敷は五十九軒あつて、娼妓は八十四人居る。藝妓も五六十人は居るらしい。店は陰店式で寫真は出して置かない。娼妓は送り込み制で居稼ぎ制では無い。遊興は時間制だから廻しは取らない。費用は一時間が一圓三十五銭、一泊は六七圓見当である。
地唄としては丹後節がある。
「二度と行くまい丹後の宮津、縞の財布が空となる」
「丹後の宮津デビントダシタ、縞の財布が思ひの種で、二度行くまいとて三度行った丹後の宮津デビントダシタ」
主なる妓樓は出雲樓、丸十、黒田、豊亭、春花、いろは、花菱、松葉樓、松島家、梅の家、米利、岡本、田宮、
新舞鶴町龍宮遊廓は京都府加佐郡新舞鶴町に在って、山陰線新舞鶴驛で下車すれば東北へ約十五丁、市内乗合自動車の便もある。
新舞鶴は軍港の町で、鎮守府の存廃如何に依つて町の與廃の決する處だと云へる。事實此處の遊廓も明治三十四年鎮守府の開廳と共に人口も急激に殖え、遊廓の必要に迫られて設置せられたものである處を見ても判らう、又軍縮の断行されない前迄は貸座敷が四十六軒あり、娼妓は三百四五十人も居たものが、軍縮の結果今日では貸座敷が二十九軒に減って居り、娼妓等はたった八十人に成って終つた。店は寫眞式で陰店は張つて無い。娼妓は時間制、又は通し花制で廻しは取らない。居稼ぎ制で送り込みもやらない。客は重に軍人なのと、又一つには營業の挽回策としてか、一時間遊びが馬鹿に安く只の一圓である。但し一泊となれば六七圓は掛る。臺の物は時下相場である。
貸座敷には伊呂波樓、千秋樓、遊海樓、あら屋、田中樓、三園家、第三いろは樓、酔月樓、金生樓、一京樓、栄楽樓、雲濱樓、第二遊海樓、松葉樓、朝日樓、昭和樓、千秋樓支店、藤村樓支店、いろは樓支店、柴月棲、金峰樓、愛喜樓、松岡樓、春日樓、龍のや、北越樓、福竹樓、菊水樓、浪花樓等である。
附近には金剛院、青葉山、西国札所の松尾寺等がある。
中舞鶴町遊廓は京都府加佐郡中舞鶴町長濱字加津良に在って、舞鶴線中舞鶴驛で下車すれば北へ約十五丁の個處である。
此の町も新舞鶴と略同樣な運命を持つ處で軍港の力で發展して來た町である。鎮守府の無かつた以前には勿論一寒付で、遊廓等のあらふ筈は無かつた。従つて此處の遊廓も軍港が咲かせた花だと云っても差支へ無い。
現在貸座敷は二十軒あつて娼妓は二十三人居るが、多くは近縣の女である。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部置屋から揚屋への送り込み制である。遊興は通し花制で客の廻しは取らない。費用は一時間遊びが一圓で、一泊には六七圓程度である。
揚屋には、京屋、成田樓、蔦家、清家、一之家、丸吉、正的樓、常盤樓、東家、吉野樓、龜之家、大正樓、お多福、榮樓、新吉野、君之家、入船樓、寛容樓、大よし、信京樓等がある。
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