全国遊廓案内(昭和5) 函館本線附近

全国遊廓案内(昭和5) 函館本線附近
公開:2021/09/05 更新:

このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『函館本線附近』に存在した遊廓を説明します。


函館本線附近

函館市大森町遊廓

函館市大森町遊廓は北海道函館市大森町にあつて、鐵道は函館本線の發車點に當っていて、北海道の門戶である。驛からは乗合自動車が出る。大森町で下車すればよい。

函館市港は山高く水深くて、風浪を避けるに宜しく、又港湾の設備も可なりに整って居るので、あらゆる點に於て北海道第一の良港だ。又古い開港場としても知られて居たので廓の歴史も相當に古く、判然はしてないが、現在貸座敷約百拾六軒ばかりあつて娼妓は約五百七十人位居る、重に北海道及奥羽地方の女が多い春から秋にかけて人の出入が多く、最も活気を呈して殷賑を極めるのは夏場である。陰店制も現今では全部寫眞制に改め、遊興は、全部東京式廻し制である。御定りは酒肴或は茶菓附一泊四圓二十錢、三圓五十錢、二圓五十錢(税共)とあり、特に本部屋代としては取らぬ様で失客から本部屋に入る定となつて居る。藝妓も呼べる玉代一時間一圓位では客の任意である。

附近には、臥牛山の函館公園があつて、一帯の地は風光明媚を以て知られている。附近には五稜廓と湯の川温泉もあつていづれも電車の便がある。

江差町遊廓

江差町遊廓は檜山郡江差町字新地に在つて、函館鐵道本線本郷驛から西へ約十五里江差行きの乗合自動車があつて約二時間、賃金は三圓八十錢である。

江差は北海道西岸の要港で、江差追分節の本場として有名だ、江差港は景色の善い處で鷗島、大島、小島等がおぼろに霞んで見える邊りは、何とも云得ない氣分だ。明治三十二年の大火に、沿革史類は悉く焼失して終わったので、判然した事は判らぬか、天保年間には「江差の五月は江戸にも無い」と歌はれた程の殷盛を極めたものらしく、明治三十三年に復興した當時は、茲の漁場の全盛期で、妓樓五十軒、娼妓二百八十人を算したと傳へられて居る。現在では、松月樓、曙樓、二葉樓の三軒しか無く成って、娼妓もたつた十二人に滅少して終った。秋田縣、青森縣の女が多い、店は寫眞式で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎで送り込みはやらない。廻し花制で通し花は取らない。費用は御定りが三圓二十錢で、一泊が出來、臺物も附いて來る。藝妓も呼べる。本部屋は無い。

江差追分「松前江差の鷗島は、地から生へたか、浮き島か」

森町遊廓

森町遊廓は北海道茅部郡森町字内浦に在って、函館本線森驛下車、東へ約一丁の地點にある。
昔は茲も宿場で飯盛女が盛んに跋扈して居たものであるが、法令に依つて女郎屋と成り更らに遊廓と變化したものである。現在貸座敷業は五軒あつて娼妓は二十人居る。

制度は総て東京式で、居稼ぎ制であり、寫眞制であり、廻し式である。遊興に甲乙の二種あって、甲は本部屋で三圓九十錢であり、乙は廻し部屋で三圓と云ふ事に成つて居る。此れが茲の御定りで、此れ以外に遊び方は無い。勿論御銚子が附く筈である。遊興稅は消費高の一割である。但しチップは含んで居ない。時間制と云ふのは短時間遊びの事で、一圓四五十錢見当だ。

妓楼は、観月樓、二福樓、梅香樓、千葉樓、松月樓、等である。因に此邊は松前追分節が盛んである。

壽都町遊廓

壽都町遊廓は北海道後志國壽都町にあって、汽車は、函館本線、黒松内驛で壽都線へ乗換へ、壽都驛で下車する。

貸座敷は約四軒娼妓は約十五人位居る。東京式廻し制店は陰店を張って居る。遊興費は岩内と同じ程度と思へば間違ひない。

余市町遊廓

余市町遊廓は北海道後志國余市町にあつて、汽車は函館本線余市驛へ下車する。乘合自動車又は馬車の便がある。

貸座敷現在、五軒、娼妓は約二十人位居る。主に北海道及奥羽婦人が多い。御定りは參圓五十錢二圓五十錢とあつて、酒肴附で一泊可能と言ふ事になつて居る。親切だとの評判場所柄當然と思はれる。


岩内町薄田遊廓

岩内町薄田遊廓は北海道後志國岩內郡岩內町薄田に在つて、日本海に面した港町である。岩內線岩内驛で下車すれば、西南約十五丁の處に本遊廓が在る。

明治二十年頃迄は、岩內町青橋附近に貸座敷が散在して居たものである。其當時は仲々斯業が發展して居たもので、貸座敷が十五六軒もあり、娼妓も百數十人居たものだつたが、郊外に近い現在の個處に移博してからは、徐々に衰微の形式を辿り來つて、目下の處では僅かに貸座敷が三軒残って居るのみで、娼妓も十三人に滅て居る。成は寫眞制で、娼妓は居稼制に成つて居り、送り込み制では無い。勿論廻しは取る事に成つて居る。御定りは三圓で甲る乙も無い。只本部屋になるには一圓増しと云ふ事に成って居る。而して御銚子が一本附く筈だ。税は消費額の一割である。娼妓は北海道及東北地方の女が多い。遊樓は、北辰樓、豊精樓、末廣樓、の三軒。

小樽南仲遊廓

小樽南仲遊廓は小樽市京町に在って、小樽は中央小樽驛から西南へ約十二三丁の地點に在り、タクシーは一圓である。

小樽は安政の頃迄は一小魚村に過ぎなかったが、北海拓殖の発展に伴って繁昌し、地の利と築港と相俟って今では大函館市と肩を並べて居る勢だ。高等商業學校があり、水産試験所があり、小樽、中央小樽、小樽築港の三驛を所有して居る。手宮には今から約千二百六十前に、土耳其人の建てた靺鞨語文の珍らしい碑がある。遊廓も南廓の外に北廓もある。

此の南廓には目下貸座敷が九軒あつて娼妓は約五十人居るが、重に青森縣、山形縣、秋田縣地方の女が多い。店は寫眞式で陰店は張つて無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は廻し制で通し花は取らない。費用は御定りが甲四圓(本部屋)で、乙は三圓、丙は二圓五十銭である。各臺の物が附いて一泊が出来る。娼樓には、鯉川樓、全盛樓、加陽樓、松金樓、三龜樓、長明樓、山一樓、北越樓、旭樓等。

小樽市梅ケ枝町(北)遊廓

小樽市梅ケ枝町(北)遊廓は北海道小樽市梅ケ枝町にあつて、函館本線、小樽驛で下車する自動車或は乗合自動車がある。

遂四五年以前迄は貸座敷も可成に多く南遊廓と歩調を揃へて居つたのであるが、打続く不景気と、私娼の著しく増加したのとに原因して、最近は多少の廃業者を出したので現在は十二三軒、娼妓は約七十人位に減った様である。娼妓は、奥羽人多く、店は寫眞制で、遊興は東京式廻し制度になって居る。遊費は南遊廓とほぼ同等と思へば可い。

札幌白石遊廓

札幌白石遊廓は札幌市白石町字一條から五條迄が一廓成につて居て。札幌驛から東南へ約廿丁、市電は大門前で下車する。賃金は片道六錢。

札幌は全道の行政上の中心地で、道廳があり、鐵道、逓信の各管理局、税務監督局、帝國大學等があり、大日本ビール、帝國製麻、鐵道省等の大工場がある。市街はアメリカ式の明るい様式で、道幅は廣く、且つ碁盤の目の様に整然として居る。市街の中央には市を南北に分断した大通りがあつて、黒田清隆や、永山將軍等の銅像がある。帝大附属の植物園と、市の中島公園とは全國的に有名である。明治初年に開設された遊廓で札幌市南五條に薄野遊廓と云ふのが在った。其れが大正九年に現在の個處へ移転して來たものである。

現在貸座敷は三十一軒あつて、娼妓は二百五十人居るが、北海道の女が最も多い。店は寫眞制で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は廻し花制で通し花は取らない。費用は甲が四圓二十錢で、乙が三圓二十錢、丙は二圓五十錢で宵から一泊が出來る但し臺の物は附かない。本部屋へは先客順に這入る事に成つて居て増しは取らない。

娼樓には、釣月樓、昇月樓、久津和樓、新盛樓、第二新盛樓、玉樓、有明樓、北國樓、高砂樓、天田樓、榮清樓、松島樓、昭和樓、源氏樓、日光樓、志喜島樓、満月樓、喜久川樓、南花樓、榮太樓、一二三樓、富山樓、福井敷、一力樓、丸喜樓、北越樓、岡田樓、宮島樓、大正樓、等がある。

江別町遊廓

江別町遊廓は北海道札幌郡江別町字江別に在って函館線江別驛で下車すれば北へ約十丁の個處である。江別町は石狩平野の中央にある繁華地で、石狩川と江別川との合流點に成って居て、石狩川航行汽船の起點に成つて居る。

遊廓には目下貸座敷が六軒あつて、娼妓は全部で三十五人居るが殆んど北海道生れの女計りである。店は寫眞制で陰店は張つて無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は廻し制で通し花は取らない。費用は御定りが二圓六十錢で一泊が出來、臺の物も附く事に成つて居る。妓樓には金嘉樓、栄樓、全盛樓、武藏樓、有明樓、千歲樓等がある。


岩見澤町遊廓

岩見澤町遊廓は空知郡岩見澤町字元町に在つて、函館本線岩澤見驛から東北へ約十二丁タクシーは賃一人五十錢である。

岩見澤は石狩平野の中心地で、空知炭田の中心市場である。人口約二萬五千の繁華地で、室蘭線は茲に起點を置いて居る。貸座敷は目下六軒あつて娼妓は甘五人居る。北海道の女が多い。店は寫眞店、娼妓は居稼ぎ制で、遊興は東京式廻し制。甲は本部屋で四圓二十錢乙は廻し部屋が三圓、何れも臺の物が附いて来る。妓樓は、曙樓、栄樓、喜笑樓、豊水樓、入丸樓、一二三樓、の六軒。

哥志内澤町遊廓

哥志内澤町遊廓は北海道石狩國哥志內澤町にあつて、汽車は函館本線の砂川驛で哥志内線と乘換へ終點で下車する。有名な鉱山地である。

貸座敷は現在四軒、娼妓約二十人位居るが、重に鉱山に働く人が相手である。御定りは最低一圓五十錢位迄あつて、三圓五十錢、二圓五十錢、四圓等は酒肴が附く。特に本部屋としてはない。が廻しは取つてゐる。

瀧川町遊廓

瀧川町遊廓は北海道空知郡瀧川町に在つて、函館本線瀧川驛下車して東へ約八丁の個處に在る。

此處は明治二十九年に私娼から公娼制に改革されて現在の遊廓に移轉したもので、目下は貸座敷が七軒あつて、娼妓は約四十人居るが東北地方の女が多い。店は寫眞式の外に陰店も張って居て、娼妓は全部居城ぎ制で送り込みはやらない。遊興は廻し制で通し花は取らない。費用は御定り甲が三圓五十錢、乙は三圓、丙は二圓五十錢で、甲と乙は本部屋である。臺の物は附かない。此の外に短時間遊びは二圓見當だ。娼樓は、三角樓、惠比壽樓、都樓、新盛樓、日の出樓、遊嬉樓、昇水樓の七軒である。

濱益村茂生遊廓

濱益村茂生遊廓は北海道濱益郡濱益村字茂生にあつて、未だ交通の便が開けない爲めに、海路を利用するのが便利である。そうして鐵道に依る時は函熊本線瀧川驛へ下車し西へ約十三里もあり又函館本線深川驛で留萌線へ乘換へ、増毛驛で下車するとしても尚ほ五六里は充分あると言ふ不便な所である。最も便利な方法としては小樽からの定期船を利用する事である。然し目下瀧川驛から自動車開通中であるから近日中には非常に便利となる事と思ふ。

大體の沿革は宝永年間に松前氏から三場所の一として指定されてから次第に開けて來た爲めに、特定地として當時の拓殖使から、貸座敷を許可せられた。それが引続いて今日に立到ったものである。妓樓の總數は二軒、娼妓は十五人位居り、制度は居稼ぎ制で、店は陰店を張っている。遊興は時間制又は廻し制である。

御定りは參圓、外に甲四圓と云ふのがある。遊興税は右金額の一割増である。臺の物が附いて一泊が出来る。又一時間遊びは壹圓七拾銭で之が最低値段である。娼妓は一枚鑑札だから入用の場命は藝妓を呼ぶ事も出来る。玉代は一時間壹圓貳拾錢位である。特殊の風習は、娼妓は春五四月に成と鰊漁で濱の漁夫の中に交って、赤いタスキ掛でまめまめ敷く立働く事で、なまめかしい特殊の漁場情緒がしみじみ、と感じられる。
濱益、民謡「濱益良いとこ、誰が言ふた、うしろ黄金山、前は海、尾のない狐がすむそうな。」

深川町花園遊廓

深川町花園遊廓は北海道雨龍郡深川町、字花園町に在つて、函館本線深川驛で下車すれば西南へ約九丁、乗合自動車を利用すれば賃二十五錢である。

此處の遊廓は明治三十三年に設立されたもので、目下貸座敷が七軒あつて娼妓は三十五人居る。新潟、山形、青森縣の女が多い。店は寫眞式で陰店は張つて無い。客は廻し制で通し花はとらない。娼妓は居稼ぎ制で、送り込みはやらない。費用は御定りが三圓二十錢均一で一泊が出來、臺の物も附く規定に成つて居る。藝妓を呼べは一座敷二圓。妓樓には深川樓、西岡樓、鶴川樓、金昇樓、旭樓、蛇之目樓、辰巳樓、等がある。


留萌町遊廓

留萌町遊廓は北海道天鹽國留萌町にあつて、汽車は、函館本線深川驛で留萌線へ乗換へ留萌驛へ下車する日本海岸の良港である。

目下貸座敷の數は約六軒、娼妓は約二十五六人位居て、重に北海道生れの女が多い、店は陰店制が多いので、漁師達は夕景に大勢素通して歩く。此海の地で哀調のこもつた獨特の追分を開くのも又變つた情調のあるもので。御定りは三圓五十錢と、二圓五十錢とあつて酒肴附で一泊が出来る。夏場になると急に人の多くなるのも又北海道の變つた處である。

鴛泊村遊廓

鴛泊村遊廓は北海道北見國鴛泊村にあって、妓樓は約三軒娼妓は約十五人位居る。

香深村遊廓

香深村遊廓は北海道北見國永門郡香深村にあって、妓樓は約三軒娼妓は約十五人位居る。

虻田郡田村遊廓

虻田郡田村遊廓は北海道虻田村にあって、妓樓は一軒娼妓約八人位居る。

増毛町遊廓

増毛町遊廓は北海道天鹽國増毛町にあって、汽車は函館本線深川驛で留萌線へ乗換へ、増毛驛で下車。

西海岸の良港として小樽からの定期船が通って居る。漁師港ではあるが、町は一寸賑っている。貸座敷數現在は三軒、娼妓は約十五人位居る。御定りは三圓、二圓とあつて酒肴附である遊興は東京式廻し制。店は寫眞制である。附近には鰊、鱒、鮭の漁場がある。

羽幌村遊廓

羽幌村遊廓は北海道天鹽國羽幌村にあつて、汽車は函館本線深川驛で、留萌線へ乘換へ、鬼鹿驛で下車する。驛から北方へ約十三里位の地點にある。

一漁船であるが、漁師相手で妓樓五軒、娼妓約十五人位居る。御定りは三圓二十錢、二圓二十銭とあつて、酒肴或は茶菓附である。廻しは取つてゐる。

旭川市中島遊廓

旭川市中島遊廓は北海道旭川市中島町に在つて、函館本線旭川驛で下車する。

上川平野の中央に在つて、師団司令部がある。酒、醤油、味噌、澱粉、下駄木、鉛筆等が産物で、人口も既に十萬に近着いて居る。貸座敷は目下廿七軒あって。娼妓は約二百人居るが、北海道及東北地方の女が多い。店は寫眞店で、娼妓は全部居稼ぎ制、遊興は時間制又は廻し制で、通し花は取らない。費用は本部屋(甲)が四圓で、廻し部屋(乙)は三圓と丙二圓五十錢とある。何れも臺の物が附いて來る。

妓樓は
稲葉樓 浪花樓 昇月樓 北越樓 吾妻樓 第三山嘉樓
日の出樓 壽樓 高島樓 東京樓 いろは樓 文明樓支店
吉田樓 豊州樓 鷹栖樓 文明樓 新玉樓 江差樓
恵比壽樓 山嘉樓 青高昇樓 新川樓 芳泉樓 金松樓 一二三樓 旭樓 日進樓

旭川市曙遊廓

旭川市曙遊廓は北海道旭川市曙町にあって、函館本線旭川驛で下車する。

旭川には、中島遊廓の外に曙遊廓がある。中島遊廓よりは後で生まれた處である上に、場處の闘係等もあつて、現在は貸座敷が八軒しか無い。娼妓は七十人程居るが北海道の女が比較的多い。制度及び費用等は、中島遊廓と殆んど同様であるから、二重に成る事を避けて置く。

室蘭市遊廓

室蘭市遊廓は室蘭市幕西町に在って、室蘭線室蘭驛から西へ約六丁の個處に在る。

室蘭は噴火湾の東端に突出た腰部に在る要港で、人口は約五萬の都市である。驛は日本一の大驛として有名だ、室蘭市の生命は、日本製綱所にあると云はれて居る。其れ程の大規模でなり、又其れ程の大量製産があるのだ。

貸座敷は目下十六軒あつて、娼妓は九十五人居る。北海道の女が多い。店は寫眞店で娼妓は全部居稼ぎ制である。遊興は廻し制で通し花は取らない。費用は甲四圓、乙は三圓で各臺の物が附いて來る。甲は本部屋である。何れも一泊が可能だ。妓樓は、第一長榮樓、昭和樓、菊本樓、恵比壽樓、蛇ノ目樓、富山樓、清花樓、いろは樓、第三長榮樓、藝備樓、菊榮樓、清明樓、手留喜久樓、榮太樓、清川樓、明治樓、等である。附返には登別温泉、洞爺湖温泉等がある。

幌泉村遊廓

幌泉村遊廓は北海道日高國幌泉村にあつて、太平洋岸の一漁津である。

汽車は根室本線沼の端驛で北海道鐵道へ乗換へ邊留內驛で下車する。驛から約二十里位東南の地點にある村だ。現在賃座敷は一軒、娼妓は約十人位居る。


苫小牧遊廓

苫小牧遊廓は北海道膽振郡苫小牧驛にあつて、汽車は室蘭線苫小牧驛へ下車する遊廓の貸座敷は約七軒、娼妓は約三十人位居て、北海道地方の女が重である。店は寫眞制及陰店制とあつて、遊興は東京式廻し制になつて居る。御定りは三圓半二圓五十錢とあつて酒肴附である。勿論此れで一泊も出來る。

附近にはアイヌの部落がある。

浦河町遊廓

浦河町遊廓は北海道日高國浦河町にあつて、汽車は室蘭本線、沼の端驛から、北海道鐵道に乘換へ、邊富內へ下車し北方にある東岸の港である。

貸座敷は約三軒娼妓は約十五人位居り、御定りは三圓、二圓五十銭とある。娼妓は北海道人多く陰店を張つて居る。勿論廻し制で臺の物がつく。

帶廣町遊廓

帶廣町遊廓は北海道十勝國帶廣町にあって汽車は、根室本線、帶廣驛で下車する。

現在は遊廓の貸座敷は約八軒、娼妓は約四十人位居り、青森及北海道の女が多い。店は寫眞制東京式廻し制で、通し花制ではない。

御定りは三圓五十錢、四圓とあり酒肴附又二圓五十錢は茶菓附だ相である。帶廣は音更川サツナイ川、十勝川の合流點にあつて一種の港の様な感じのある處だ。

廣尾遊廓

廣尾遊廓は十勝國廣尾郡廣尾村に在って、廣尾線甲札内驛から南へ約十五里、乗合自動車の便がある。

廣尾村は可成り昔から在つた處で、寛文六年に松前藩士蠣崎藏人と云ふ人が來たと云ふ記録があり、又寛政十年十月近藤重蔵と云ふ人が來て測量をしたと云ふ記録もある。遊廓に成る前迄は私娼だつたが、明治三十一年に全部を纏めて本廓と成したものである。

現在貸座敷四軒あつて、娼妓は十二人居り、全部本道の女計りである。店は寫眞式で陰店は張ってない。娼妓は会部居稼ぎ制で送り込みはやらない。客の廻しは取つて居る。通し花は取らない。費用は御定りが三圓で外に税一割、臺の物が附く。娼樓には、東樓、二木樓、一二三樓、新竹樓等がある。

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全国遊廓案内(昭和5) はじめに
全国遊廓案内(昭和5) はじめに

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、当時存在した遊廓を都道府県単位で一覧にしています。

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全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)
全国遊廓案内(昭和5) 遊廓語のしをり(遊廓言葉辞典)

昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』を翻刻した内容をご紹介します。こちらでは、遊廓に関連している言葉の意味を説明しています。(遊廓言葉辞典)


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