このページでは、昭和5年(1930)に出版された『全国遊廓案内』の中から、『宮崎縣』に存在した遊廓を説明します。
延岡町岡富遊廓は宮崎縣東臼杵郡延岡町岡富新地に在つて、日豊線延岡驛で下車すれば東南へ約八丁、人力車で行つても驛からは三十錢で行く。
延岡町では、四月には城山公園の櫻。七八月には五個瀬川の遊船(鮎漁)等に依つて附近から客を寄せて居る。
現在貸座敷は五軒あつて、娼妓は二十五人居る。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。御定りは五圓で臺の物は時下相場である。外に三時間遊びがあって金二圓だ。娼妓は主に大分縣及本縣下の女である。
娼樓には、○太幸、寶來家、寶德、菊水、幸樓等である。
細島遊廓は宮崎縣細島町にあつて、日豊線富高町で細島線に乗換へ、細島で下車する、鰐のロの様に突出した二半島に包れた東海岸の港である。現在妓樓は四軒、娼妓は約四十名居る。店は陰店制で娼妓は全部居稼ぎ制である。御定りは四圓五十錢で一泊が出來臺の物付である。廻しは一切取らない。宮崎、鹿兒島縣人の娼妓が多く、一般に親切であると言ふので比較的評判がよい。
宮崎市吾妻新地は宮崎縣宮崎市吾妻町吾妻新地に在つて、日豊線宮崎驛で下車すれば南へ約八丁の位置である。
宮崎市は縣廳の所在地で、明治十六年迄は淋しい一寒村であったものが、置縣と共にめきめきと發展して、現在では人口約四萬人に達して居る。海は浅くて汽船を碇泊し得ないのは残念であるが、景色は誠に普い處である。珍らしい植物で有名な青島、青島神社、宮崎神宮(高千穂の宮址)等があつて、日本の歴史とは不離不即の深い因果關係に在る土地だ。
現在貸座敷は拾貳軒あつて、娼妓は約七八十人居る。店は陰店で寫眞は出して置かない。娼妓は居稼ぎ制で送り込み制はやらない。時間制で廻しは一切取つて居ない。遊興は一時間一圓六十錢、半夜四圓八十五錢、一泊七圓と云ふ事に成つて居る。茲に藝妓は這入らない。
妓樓は、待月樓、朝日樓、浪花、吾妻、勇棲、山水、日の出樓、萬開、玉川、月見、福壽樓、見晴樓、等がある。
油津町遊廓は宮崎縣南那珂郡油津町に在って、宮崎鐵道内海宮崎間內海驛から南へ約五里、乗合自動車の便もある。
油津は元來港町で、鐵道の便は思はしく無いが、船の方は寧ろ発達して居る。従って此の遊廓の顧客る主に船の旅行社か船員である。
目下貸座敷が四軒あつて、娼妓は三十八人居るが、宮崎縣及び鹿兒島縣の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で参り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。午後六時から午前六時迄、午前六時から午後六時迄が一仕切で御定りが税共六圓である。御銃子が一本に肴が附く。藝妓は呼べない。
妓樓は、大黒屋、石坂屋、丸山樓、布袋屋の四軒である。附近には、梅ケ濱公園、ギオン、ウドウ神社がある。
都の城市宮丸遊廓は宮崎縣都の城市宮丸町字平野に在つて、日豊線都の城驛で下車すると南へ約三十丁の個處である。現在では未だ市電は無いから、圓タクを利用する方がよい。
都の城は宮崎縣第一の都會で、元島津氏の支封地で製糸業の盛んな處だ。此處の遊廓は明治四十二年七月に許可されたもので、現在貸座敷は七軒あつて、娼妓は九十人居り。宮崎の女が最も多く、次は廣島縣の女である。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制だから廻しは取らない。費用は臺附きで御定りが四圓である。廻し無しで斯んなに安価を一寸珍らしい。
貸座敷には東雲樓、美川樓、明月樓、浦島屋、東京樓、依姫樓、明月樓支店等がある。
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